第224回
1990年全日本ロード125ccクラスでチャンピオンになった坂田和人は、91年からグランプリに参戦。このとき「世界チャンピオンになる」と言い切り、94年にその言葉を実現した。(写真/赤松孝)
1990年全日本ロード125ccクラスでチャンピオンになった坂田和人は、91年からグランプリに参戦。このとき「世界チャンピオンになる」と言い切り、94年にその言葉を実現した。(写真/赤松孝)
 あと1日あればと思うときがだれにでもある。もっと時間があればいいレースができる。もっと時間に余裕があれば・・・。僕の場合ならだれをもうならせるような原稿が書けるかもしれないと思ったりするのかも知れない。しかし、時間はいつだって非情である。いやが応でもスタート時間は迫り、締め切りはやって来るからだ。

 坂田は、まさにそんなレースを戦い、そしてチャンピオンになった。苦しく、そして、厳しいレースだった。

 2週間前のアメリカGPで骨折した右手親指がライディングに大きく影響した。そしてチャンピオン争いというプレッシャーのかかる状況の中でブエノスアイレス・サーキットは、あまりにも滑りやすく、転倒しやすいコースだった。

 そのため、サスペンションのセッティングを出すのが非常に難しい。そんな中で坂田はエンジントラブルとそのトラブルによる転倒で、何の準備もできないまま決勝レースを迎えなければならなかった。

 朝のウォームアップでも再びエンジンが壊れ、スタート直前まで必死の作業が続けられた。その作業を坂田はピットの中のイスに座ってじっと見守るしかなかった。

 坂田の表情は厳しかった。しかし、不思議と落ち着いているようにも見えた。一種の開き直りとでもいうのだろうか。これまで見たことがないような集中の仕方だった。

 そしてグリッドについた坂田は、いつも通り、いやそれ以上の素晴らしいスタートを切って1コーナーへと消えていった。

 そのときに僕は「ああ、大丈夫。今回はチャンピオンを決めるな」と確信した。

 9位でチェッカーを受けた坂田は、既に常連となっているいつもの表彰台ではなく、ピットへとまっすぐに帰ってきた。そして大勢の人の出迎えを受けると、人目もはばからず涙を流し始めた。あまりにも大勢の人だったので、その中に埋もれ、泣きじゃくる坂田が、本当に小さく見えた。

 そんな坂田の涙を見ながら、僕も思わず涙がこぼれた。それまで不思議と冷静だったのに、坂田の涙を見た途端に耐えきれなくなった。すぐにでも、「おめでとう」と言って握手をしてあげたかったのだが、僕の順番は当然のようにずっとずっと後のこと、ただ遠巻きにして見守るしかなかった。

 9月のアルゼンチンは、柳の枝に新芽が吹き出し、タンポポが一面に咲き乱れる春の真っただ中だった。

 今年の開幕戦オーストラリアGPで坂田が優勝したとき、南半球は秋だった。それから長い冬を終え、再び、春が来たアルゼンチンで坂田はチャンピオンを決めた。この一年、苦しみ抜いてチャンピオンを獲得した坂田そのもののような感じさえした。

 ブエノスアイレスから日本までは、約30時間の長旅。どしゃ降りの雨が隆っていたニューヨーク、真夏の太陽が降り注ぐロサンゼルスで2度目の乗り継ぎをして成田に帰ってきたのだが、ついに、このGPサーカスを書くことはできなかった。

 何を書こうか何の準備もないまま、横浜の我が家にたどりついて、スーツケースを部屋に放り込むと、迫り来る締め切りの時間に追われるように書き始めた。

 もう1日あれば、チャンピオンになった坂田の話をもっと上手に書けたかもしれない。そんなことを思っていたら、たった1枚だけもらって来た坂田和人のチャンピオンTシャツに描かれた坂田の顔が、僕を見てニヤッと笑ったような気がしたのだ。

■1994年9月29日掲載
 ○・・・なんだかとても懐かしい気持ちで読み返すことになりました。ブエノスアイレスでチャンピオンを決めたサンちゃんこと坂田和人が泣き崩れたシーンは、いまでも思い出すことが出来ますが、ああそうだったんだ、そんなことがあったんだと自分の書いた原稿を読み返しながら思い出していました。なんだか、ジーンと胸が熱くなりました。25年の月日をタイムスリップして、また、さんちゃんにおめでとーと言いたくなりました。