93年Round 13 イタリアGP編
(93年9月15日掲載)
決勝前に浮かべた厳しい表情には不運の予感が・・・・・・(C)Chunichi
決勝前に浮かべた厳しい表情には不運の予感が・・・・・・(C)Chunichi
◆ Round 13 イタリアGP
◆93年9月10〜12日 モンツァ・サーキット
 ▽PP A・プロスト(ウィリアムズ・ルノー)
 ▽優勝 D・ヒル(ウィリアムズ・ルノー)
【プロストのイタリアGP】
 ▽予選 1分21秒179
 ▽決勝 5周遅れ 12位

「僕のライバルはセナではなくデーモンだ」

 完ぺきな週末だった。完ぺき過ぎたと言ってもいいだろう。あまりにも突然に、あまりにも大きな失望をもたらして幕を閉じたのだから。気を取り直すには時間が必要だった。レース後、2〜3のインタビューに答え、フランク・ウィリアムズ、ベルナール・デュドとの長い話し合いを終えた僕は、数人の友達と一緒にすぐにヘリコプターでモンツァを去り、ミラノの空港に向かった。

 ミラノからパリに向かう間、僕は頭の中で自分のレースを振り返っていた。荒れた展開の中で、僕はスタート以来、完全にレースをコントロールしていたのだ。飛行機がパリに着陸したのは19時25分。新聞や雑誌に目を通し、友人たちと冗談を交わしたおかげでそのころには僕はほほ笑みを取り戻していた。

 レースがこういう結果になったせいで、僕は4度目のタイトルを獲得した場合に自分が迎えるはずだった日曜の夜と、実際にこれから自分が迎えようとしている夜を比較せざるを得なかった。もし、タイトルを決定していたら、ヘリコプターが僕を待っていて、8時からのTF1テレビの生放送に僕を運ぶはずだった。そしてその後は、この記念すべき1日を締めくくる素晴らしい夕食会が待っているはずだった。けれど現実は違った。ほほ笑みを取り戻したものの、疲れ果てた僕はまっすぐ自宅に向かい、フラッシング・メドウズのテニスの決勝戦をテレビで見ていた。ピート・サンプラス対フランス人のセドリック・ピオリーン。ここでも、フランスのスポーツ選手が敗北を迎えようとしていた。幸いなことに、ジャン・アレジとジャン・トッドが、辛うじてフランスの名誉を守っていたけれど……。

 初めに書いたように、僕にとってのモンツァの週末は、だんだんと力強いペースで進んでいた。でも、出だしからスムーズではなかったことを書いておかねばならない。金曜日の朝、僕はコモ湖の湖畔のホテル、ヴィラ・デステからモンツァにヘリコプターで行く予定だった。けれどそこで問題が発生した。雲が低すぎて、ヘリは2度にわたって離陸をあきらめた。8時30分になったところで、僕は少しいらだちながら、車でモンツァに向かう決心をした。ホテルではすぐに、僕のために車を1台用意してくれた。道に詳しい運転手に運転をまかせ、僕はサーキットに向かった。

 それでも遅刻は免れなかった。ウィリアムズ・ルノーのシートに納まった時には、すでにフリー走行が始まってから30分が経過していたのだ。幸いなことに、グランプリの前にイモラで行った2日間のテストのおかげで、シャシーもエンジンも、基本的なセッティングができていた。イモラ・テストでは、1日を94年に備えたパッシブ・サスペンションのマシンにあて、もう1日はモンツァの準備にあてたからだ。そして予選でも少しずつマシンのセッティングを進歩させた僕は、土曜日の朝には仕事の遅れを取り戻したことに気づいていた。

 これは、僕のメカニックたちも同じだったらしい。タイム・スケジュールや伝言を掲示するウィリアムズのピットの掲示板に、彼らはこんなメモをはっていたのだ。“アラン・プロストへ…金曜日と土曜日のフリー走行は正確に9時30分に始まることを忘れないように”パトリック・ヘッドに言われてこのメモを見た僕は、爆笑した。土曜日の予選でも、僕はポール・ポジションを獲得するのに成功していた。2セット目のアタックに出たときには、アレジのパフォーマンスを追いながら、思わず心からほほ笑んでしまったことを覚えている。本当に、あのフェラーリをあんなスピードで走らせることができるのは、世界中でもジャンひとりしかいないはずだ。

 土曜日の夕方、ヘリコプターでヴィラ・デニスに向かった僕は、完ぺきな自信をもってベッドに入り、9時半ごろには深い眠りについていた。金曜、土曜は路面がぬれていたせいで、満タンのテストがしっかりできていなかった。僕は日曜の朝のウオームアップを利用して、レース・セッティングのマシンを仕上げた。マシンはすごくコンペティティブだ。路面のバンプをよく吸収するマシンはドライビングも快適で、ブレーキングの時の挙動も安定している。でも、デーモンの方は、僕ほど満足というわけではなかった。それはウオームアップの彼のタイムを見て明らかだった。

 僕のタイムが1分26秒0、1分25秒7、1分25秒4、1分24秒3、というペースだったのに対して、彼は1分26秒9、1分26秒3、1分26秒1、1分26秒0、そして、1分25秒3というタイムをマークしてウオームアップを終えていた。僕はレースをコントロールできるだろうと思った。実際、素晴らしいスタートに成功した僕は、49周目までそれを実行していたのだ。

 49周目、1コーナーのシケインを通過した後、3速で加速している時だった。何かが崩れるようにパワーが落ちると同時に僕はバックミラーでルノーのエンジンが煙を吐いているのを目にしていた。この運命の瞬間まで、心配されたのはデーモンのエンジンだったのだ。レースの大半、ほかのマシンの後ろを走っていた彼のエンジンは、水温も油温も10度も高かった。「災難のようなブローだ」とは、テレメーターの画面に何の警告も発しないまま、エンジンが壊れたときのベルナール・デュドの表現だった。

 ベルギーGPのあと、僕のライバルはセナではなくデーモンだと言ったことを、覚えておられるだろうか。この先のことを考えると、僕はまだ、タイトル獲得の大きなチャンスを握っている。でも、デーモンの存在は、真剣に僕の神経をかきむしるものだ。彼は驚くほど進歩した。それは純粋にパフォーマンスの面でなく、自分のレースを管理するという点、そして、プレッシャーに抵抗するというやり方においてだ。
 フランク・ウィリアムズはデーモンに対して、(来季について)彼が3勝を挙げた時点で考えると言っていたようだ。僕の若いチームメートは実際、本物のグランプリ・ドライバー、チャンピオンの卵に成長したのだ。モンツァ以来、彼はチームにおけるポジションを固めたと思う。たぶん、彼が“移籍のレース”に参加することはないだろう。そうなってくると、来シーズンのチームを決めるセナの仕事はとても複雑になってくるけど……。モンツァを去るとき、僕はフランク・ウィリアムズにこう告げていた。

 「見ていたでしょう。僕は見事なスタートに成功した。でも、運に恵まれなかったんだ。スタートに失敗した時はその後すべてがうまくいくのに。だから、グリーン・ランプで僕がトップに立つのは、これが最後だよ」(訳・今宮雅子)

(次回はポルトガルGP編を掲載します)