2006年1月にスタートした「TEAM NORICK JR」。第1期生だった近藤湧也(当時13歳)、山田誓己(当時11歳)、右側が野左根航汰(当時10歳)
2006年1月にスタートした「TEAM NORICK JR」。第1期生だった近藤湧也(当時13歳)、山田誓己(当時11歳)、右側が野左根航汰(当時10歳)
 今シーズンの全日本ロードレース選手権開幕戦ツインリンクもてぎ、JSB1000に参戦するヤマハファクトリーの中須賀克行、野佐根航汰は、喪章を付けて参戦しました。その野佐根と、同じくヤマハの前田恵助、桜井ホンダの濱原颯道、またアジアロードレース選手権ASB1000に参戦するヤマハの伊藤勇樹は、ゼッケン35番を身に着け、レースを走りました。ゼッケン35番は、3月26日に亡くなった近藤湧也(ゆうや)選手のゼッケン番号です。

 近藤選手を初めて知ったのは、チームノリックジュニア結成(2006年)の発表会があった、サーキット秋ヶ瀬でした。当時、野佐根航汰が10歳、山田誓己12歳、近藤選手が13歳。両親に付き添われ、憧れのライダーである故阿部典史(ノリック)と並び、ピカピカの笑顔で写真に納まりました。髪型がツンツンと立って、背が高く、ちょっとノリックに似ていたのと、野佐根や山田に比べると、とても大人びて見えたことを覚えています。
サーキットが再現された祭壇
サーキットが再現された祭壇
 チームに所属したのは1年だけで、その後再会したのは全日本ロードのパドック。すっかり成長して、あの時の少年と重なりませんでした。2009年からST600クラスに参戦を開始し、2015年の最終戦、予選2番グリッドからホールショットを奪って、そのまま逃げ切り。6年の歳月をかけ、全日本で初優勝を飾りました。会見で「夢のよう」と語っていました。

 翌年からJSB1000参戦を開始。2017年には、鈴鹿8耐をSSTクラスで参戦し、大崎誠之、前田恵助と組んで優勝。今季からヤマハのテストライダー契約も始まり、これからを期待されるライダーへと上がってきたのです。

 近藤選手は、いつも笑顔で挨拶してくれて、サーキットにいることが、走ることが、好きなんだなぁ〜、めちゃいい子だなぁ〜と思っていました。いつかちゃんと、取材させてもらおうと思っていたのですが、その願いは叶いませんでした。
告別式のメモリアルコーナー
告別式のメモリアルコーナー
 3月13日(水)、岡山国際サーキットでのテスト中に転倒、搬送先の病院で懸命な治療が行なわれましたが、26日(火)午前9時47分に息を引きとりました。所属するGBSレーシングYAMAHAが、29日(木)17時に発表しました。

 告別式はご遺族の願いで、「湧也の最後のレース」としてレース関係者はチームウェアを着用、参列者の多くはパドックにいる時と同じ服装で参列しました。祭壇にはサーキットが再現され、バイクやチェッカーフラッグが飾られていました。この祭壇を作ったセレモ船橋駅北口ホールの担当者は、「コースはヤマハブルーを意識した青いお花を入れてほしいというご遺族の意向や、サーキットの献花台に置かれていたお花も入れるなど、10人のスタッフが苦心して制作しました。このような祭壇を手掛けたのは、初めてです」と言っていました。

 仲間たちがつくったメモリアルコーナーには、小学校の作文から、亡くなる直前まで書いていたレースノートなどが展示されていました。趣味の釣り具や、やんちゃをしていた時期、美しい彼女との写真もあり、たくさんのプライベート写真も見ることができました。まっすぐにトップライダーを夢見て、努力を重ねてきた近藤選手の、密度の濃い充実した時間が伝わる空間でした。

 近藤選手と小学5年生から付き合いがある伊藤勇樹は、「湧也をライバルとして、友として、ラストランを見届けてやりたい」と言い、告別式にも参列しました。自身のFacebookでも関係者に向けたメッセージで「お前の『ゼッケン35番』、父ちゃんに借りたから。湧也にも棺を閉める前に言ったけど、『ヤダ!』って言いたそうだったから勝手に付ける!!ライダーの友だちは沢山いるけど、(親友)はお前だけだった。今も泣きそう…昨日今日でこんなに泣いたんだ。どんだけデカイ存在だよお前。『泣いてやんの!だせぇー。』ってやかましいわ!!こんなに泣かせたんだから、オーストラリアから全戦アジアに来てもらう!これからはオレの背中に乗せるから、お前の好きなレース一緒にやろう…またな、湧也」と子供のころのツーショット写真と一緒にアップしていました。
伊藤勇樹
伊藤勇樹
 その近藤選手の思いを乗せ、伊藤は、4月27日、28日に行われたアジアロードレース選手権ASB1000第2戦、レース1・レース2とも3位表彰台を獲得しました。レース1では、ラスト3ラップまで伊藤は4番手、前のライダーと2秒強の差がありましたが、最終ラップに追いつき、最終コーナーの攻防に競り勝っての表彰台。「湧也の後押しがあった」と語りました。

 コツコツと確実に力をつけ、這い上がってきた近藤選手の頑張りを、仲間たちが1番知っています。伊藤は「今年から湧也はヤマハ契約ライダーになって、オフのマレーシア・セパンテストでは、航汰、恵助、湧也と自分の4人が揃い、やっとここまで来たなって。4人でピットロードで話続け、話が尽きなくて、1時間以上いたから、陽に焼けて、みんな真っ赤な顔をしていた」と教えてくれました。灼熱の太陽を浴びて、夢の入り口に辿り着いた近藤選手を迎え、誇らしさに胸をいっぱいにした4人の姿が見えるようです。ヤマハ契約ライダーの証のツナギを着込み、コースに出ていく近藤選手を、伊藤は鮮明に覚えています。

 近藤選手には他メーカーからの誘いがあり、なかなかチャンスをあげられないヤマハも、乗り換えに反対はできないと言ってくれていたようですが、近藤選手は「ヤマハで頑張りたい」と最後まで忠誠をつくし、ヤマハライダーとして旅立ちました。
野佐根航汰
野佐根航汰
 追伸:告別式は青い空が広がる、とてもいい天気でした。みんなの悲しみが伝染して、切なく悲しくて、大きなため息をつきながら空を見上げ、「大ちゃんが逝った歳と同じ、近藤君も26歳だね」とつぶやくと、近藤選手の35番は、故加藤大治郎選手が付けていたゼッケンで、ホンダの大治郎ファンだったと、近藤選手の友人がこっそりと教えてくれました。
前田恵助
前田恵助