夏の思い出、第2弾です。今年の鈴鹿8時間耐久ロードレースのイベントで、青木拓磨が1997年以来22年ぶりに、イギリス製のハンドシフト装置を備えたホンダCBR1000RRで鈴鹿サーキットを走りました。

 日本にレースブームが到来していた1980年代、ポケットバイクで活躍する青木3兄弟(長男・宣篤、次男・拓磨、三男・治親)の名は全国に轟いていました。子供たちの憧れを一身に集めるヒーロー的存在で、その才能は後に3人がロードレース世界選手権(WGP)に参戦した事実が物語っています。

 長男の宣篤は、WGPの最高峰クラスGP500のトップライダーとなり、1997年から活躍、2002年から2004年までモトGPで戦い、治親はGP125で2度(1995年と1996年)も世界チャンピオンに輝いています。

 次男・拓磨は、1995年と1996年に全日本ロードレース選手権の最高峰、スーパーバイククラスでチャンピオンを獲得、1997年にはWGPのGP500クラスにレプソル・ホンダからフル参戦を開始します。ホンダNSR500Vを駆り、3位表彰台を2度、2位表彰台を1度獲得し、デビューイヤーをランキング5位で終えます。ホンダNSR500Vはワークスマシンに比べると非力と言われており、それで戦闘力の高いマシンを抑えての好成績に、世界が拓磨の才能を認識することになるのです。
 全日本時代から拓磨を支える岩野秀気メカニックは「あのミック・ドゥーハン(1994年から1998年までWGPチャンピオン)が警戒していたからね。拓磨は間違いなく世界チャンピオンになっていたと思う」と語ります。

 そう思っていたのは岩野メカだけでなく、多くの関係者が最高峰クラスで初の日本人チャンピオンへの期待を持って応援していたのです。拓磨のエネルギーは底知れずで、負けん気の強さが全身にあふれて、行動も会話もどこか規格外でした。

 拓磨は「ポケバイに乗せてくれたのは親。子供のころ、一度バイクが嫌になったことがあったけど、すぐに戻ってきた。そこからは、自分の意志でバイクに乗り、道を切り開いてきた」と、真っすぐにレース人生を歩んでいました。宣篤や治親はプライベートライダーとして世界へ出ましたが、拓磨は日本でしっかりと実力を示し、ホンダワークスライダーになり、タイトルを獲得するという王道を歩み、世界への切符を得たのです。他のふたりに比べて、我慢の時期を長く過ごし、やっと世界で力を示し始めました。
 ですが、1998年シーズン開幕前のテスト中に転倒、このときに脊髄を損傷し、下半身不随となってしまいます。このときも一緒にいた岩野秀気メカは「もう拓磨はバイクに乗ることができないと知らされ、メカニックを辞めようと思った。そうしたら、拓磨がまたバイクに乗るから辞めるなって…。だから、拓磨が戻れる場所を残さなければと…。それで続けて来た」と言います。

 この衝撃のニュースに世界を駆け抜け、レースファンは落胆し、失望しました。それでもふたりは、希望を捨てていませんでした。

 だからこの鈴鹿8耐でのイベントは、拓磨が22年ぶりに岩野メカとの約束を果たした日でもあったのです。
 写真撮影のとき、拓磨は岩野メカの肩をしっかりと抱いて、力を込めました。ふたりの顔は泣き笑いのようで、見ている人々の胸を熱くしました。鈴鹿サーキットを疾走する拓磨を歓声が追いかけました。メインスタンドに戻った拓磨の周りには人垣ができ、ポケバイ時代からのファンは、青木3兄弟のタオルにサインをもらっていました。拓磨は多くの人にサインをし続け、「がんばって」という声に応え続けました。

 岩野メカはあれから、セテ・ジベルノー、玉田誠、マックス・ビアッジら世界最高峰のライダーを支え、ホンダエンジン供給となったモト2のプロジェクトに力を尽くし、アジアタレントカップをサポート、現在は全日本のホンダユーザーの相談に乗り、多くのライダーを支えています。

 拓磨は、「レン耐」というバイクレースイベントを開催し、多くの人たちにバイクの楽しさを伝え、またドライバーとして四輪レースに参戦、アジアクロスカントリーラリーやダカールラリー、GT ASIAに挑戦し、現在はフランスの耐久レースVdeV(ベドゥベ)選手権に参戦。2020年にはWEC世界耐久選手権として行われるルマン24時間レースに特別枠での出場を予定しています。

 車椅子が必要になったばかりの拓磨が「いつかルマン24時間に出たい」と語っていたことを憶えています。岩野メカとの約束を果たしたように、拓磨は自分との約束を守るため、高い壁を、その意志と情熱で乗り越えるのだなと思います。
 「車椅子は不便だけど、不自由じゃない」と、どこへども出かけ、夢を追いかける拓磨のエネルギーは、今も変わらず。規格外の計り知れないパワーを持ち続けているのだなと思った夏でした。