第251回
2005年シーズン。新しいチャレンジに向けて雪原に立つノリック・・・。「エンドーさんの企画は絶対にツナギですね」と笑うノリック。ツナギで500系のぞみの前に立ち、ヨットの上に立ち、スカイダイビングをして、ロッククライミングを行い・・・。ノリックには感謝するばかりです。それにしても、ノリックとの仕事は本当に楽しかったなあ・・・。最高でした
2005年シーズン。新しいチャレンジに向けて雪原に立つノリック・・・。「エンドーさんの企画は絶対にツナギですね」と笑うノリック。ツナギで500系のぞみの前に立ち、ヨットの上に立ち、スカイダイビングをして、ロッククライミングを行い・・・。ノリックには感謝するばかりです。それにしても、ノリックとの仕事は本当に楽しかったなあ・・・。最高でした
 「GPサーカス」に始まり、「GPロード/国境を越えて」、そして「タビビトノキ」とタイトルは変わってきたが、十数年、このコラムを書き続けている。世界中どこにいても締め切りが来るのでいろんなところで書くことになる。ホテルやサーキットはもちろんのこと、空港や駅、移動中の車、飛行機の中でも書く。シーズンオフになってもそれは変わらず、今日も移動中の東京駅でこの原稿を書いているのだ。

 先週のタビビトノキも、以前お世話になり、現在は福島県の田舎町に住む方の家にノリックと一緒に出かけ、雪景色の中で書いたものだった。一面銀世界の田んぼにレーシングスーツを着てもらい立ってもらった。ノリックには、「エンドーさんの取材は、いつでもどこでもレーシングスーツですね」と笑われたが、雪原に立つノリックのりりしい姿は、新しいチャレンジのスタートにふさわしいなあと思った。

 思えば、ノリックを初めて取材したのは、彼が全日本にデビューする直前の17歳の時だった。あれから12年。彼が海外で走ったレースは1戦も欠かさず見てきた。そんな付き合いだから、「引退するときは、オレに最初に原稿を書かせろ」と言い続けてきた。ノリックが不振にあえいだ昨年は、いよいよその時が近づいてきたのかも知れないなあと思った。

 というのも、これまでの言動から、モトGPで走れなければノリックは、バイクを降りるかもしれないと感じていたからだ。

 しかし彼はレースを続けることを決意する。新しいチャレンジの場が、WSBというのも“いいぞ”と思った。WSBは、モトGPというレース界のメジャーで夢破れた選手たちが多く参加している。踏まれても踏まれても、それでも芽を出そうと頑張っているライダーたちがたくさんいる。

 これまでも、ハガノリ(芳賀紀行)やかっちゃん(藤原克昭)には、素晴らしいレースを何度も見せてもらった。WGPでどん底を味わいながら、新しい夢に向かって全力を尽くす姿には、いつも感動させられてきた。WGPだけが夢を追いかける場所ではないということを、この2人が教えてくれたような気がするからだ。

 タビビトの今季の目標は、WGP&WSB全戦取材敢行。それだけにノリックには、まだまだレーシングスーツを着て取材を受けてもらわなければいけない。新しい夢に向かって“ノリックらしい”レースを、見せてほしいと思っているのだ。(えんどう・さとし=GPライター)

■2005年1月12日掲載



 トーチュウF1は、1990年4月、当時、報道部長だった佐藤靖邦さんが中心となってスタートさせたものでした。タビビトは、この年からトーチュウに記事を書くことになるのですが、日本人選手の活躍に伴って、紙面展開もどんどん大きくなっていきます。そして、1990年に始まった「GPサーカス」は、このタビビトノキを含めて、20年近く続くことになります。このコラムは勿論のこと、ウェブサイトの「飛び魚日記」も、佐藤さんが書いてみたら・・・と勧めてくれたものでした。「タビビトノキ」と「飛び魚日記」は、自分で考えたタイトルですが、そういうのを面白がってくれるのも佐藤さんでした。
この撮影は、トーチュウF1をスタートさせた佐藤靖邦さんが、会社を定年した後に住んでいた福島県平田村の自宅で行いました。囲炉裏のある古い家の外観を変えず、室内を近代化させた素晴らしい住まいでした。佐藤さんは2010年に病気で亡くなりましたが、日本のモータースポーツに大きな貢献をした方でした
この撮影は、トーチュウF1をスタートさせた佐藤靖邦さんが、会社を定年した後に住んでいた福島県平田村の自宅で行いました。囲炉裏のある古い家の外観を変えず、室内を近代化させた素晴らしい住まいでした。佐藤さんは2010年に病気で亡くなりましたが、日本のモータースポーツに大きな貢献をした方でした
この取材が終わった数日後に、ツインリンクもてぎでノリックは、ヤマハYZFーR1でテスト走行を開始します。WSBへのチャレンジを前にトレーニング用のマシンをつくってしまうところが実にノリックらしいと思ったものでした
この取材が終わった数日後に、ツインリンクもてぎでノリックは、ヤマハYZFーR1でテスト走行を開始します。WSBへのチャレンジを前にトレーニング用のマシンをつくってしまうところが実にノリックらしいと思ったものでした
これは1993年に使っていた手帳で、初めてノリックを取材したときの予定を書き込んでいるメモ。1993年3月4日午後1時。あれから、もう20年ですね
これは1993年に使っていた手帳で、初めてノリックを取材したときの予定を書き込んでいるメモ。1993年3月4日午後1時。あれから、もう20年ですね
ノリック、全日本500ccデビュー直前のインタビュー
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■さぁ開幕 全日本ロード〜17歳の500ccライダー阿部
■父親も“全日本王者”の親子鷹

 「お父さんのレースを見たのは今まて3回くらい。最初に見たのは幼稚園のころたったと思う。雨が降っていて、早く始まらないかなって思っていたのをよく覚えている」

 「で、その時、お父さんの成績は?」とたずねると、阿部典史はちょっと間を置いてから「優勝しました」と答えた。

 お父さんの名前は阿部光雄。川口に所属するオートレースの選手て、典史か初めて見たレースというのは、1年に1度の日本一を決める日本選手権のことたった。

 あれから10年とちょっとが過ぎ、現在44歳になるお父さんは、相変わらず優勝争いを続けている名選手てある。そして息子かサーキットを走る時は、時間が許す限り同行し見守っている。

 「トントン拍子でここまでこれたのもお父さんかいたからだと書かれる。よくわからないけれと、きっとそうなんでしょうね」

 彼の話を聞いていると、平忠彦やW・ガードナーにあこがれてレースを始めた選手たちとはちょっと違う。一流のプロスポーツの選手を父に持ち、しかもオートレースを職業とする父親たからこそ、オートレースとロードレースという分野は違っても自然とプロの道を選んだようである。

 「世界GPのビデオを一緒に見て、貝体的に理論的にこんな時はこうするんたそっていろいろ教えてくれた。それは今でも変わらない」

 そして教えるたけてなく、父親は典史が中学を卒業すると同時に、ロードレースのライセンスが取得出来る16歳になるまでの約半年間、アメリカヘダートトラックの修行に出した。ダートトラックとは、アメリカてはとても盛んなレースで、土の上て行うオートレースのことた。

 典史はその半年間、カリフォルニア州のサクラメントに住んで毎週のようにレースに出場したのだという。プロとアマチュアクラスがあって、アマチュアクラスに出場した典史は7回の優勝を飾った。

 それから1年とちょっと。国内B級と国内A級て250ccを経験した典史は、国隙A級に昇格と同時に国内の最高峰の500ccクラスにホンダNSR500で出場することになった。

 「成績なんか気にしないで好きに走ればいいってチームの監督は言ってくれている」と典史は笑うが、今月上旬、鈴鹿で行った2回目のテストで2分14秒0というタイムをマークした。コースレコードの10秒台にはまだほど遠いが、まずは非凡な才能を見せてくれたようだ。

典史のデビューレース、鈴鹿まであと2日−−。
1993年3月11日付、ノリックのインタビュー記事が掲載されたトーチュウ紙面
1993年3月11日付、ノリックのインタビュー記事が掲載されたトーチュウ紙面