91年Round 4 モナコGP
(91年5月15日掲載)
コクピットで集中力を高めるプロスト(C)Chunichi
コクピットで集中力を高めるプロスト(C)Chunichi
◆ Round 4 モナコGP
◆91年5月9〜12日 モンテカルロ市街地コース(サーキット・デ・モナコ)
 ▽PP A・セナ(マクラーレン・ホンダ)
 ▽優勝 A・セナ
【プロストのモナコGP】
 予選1回目は4番手。2回目は初日のタイムは上回れず、グリッドは7番手。レースは終盤までセナに続く2番手につけていたが、66周目、マンセルにパスされ、68周目、タイヤ交換。これに手間取ったこともあり、結局5位でフィニッシュ。最終ラップの1周前でコース・レコードを塗り替えるファステスト・ラップを出したのが、プロフェッサーの意地だった。

「タイヤ交換、車が動かない」

 もし、このモナコGPで状況を立て直すのにほんのわずかでもチャンスがあったなら、たとえ見た目にはどうであろうと、それはできたはずだった。“見た目にはどうであろうと”と僕が言うのは、フリー走行でも予選でも、僕たちのマシンの本当の性能は発揮されていなかったからだ。

 すべてが順調に始まったわけではない。特に、雰囲気の部分が問題だった。サンマリノGPの翌日、僕は大部分のイタリア・プレスによってすっかりこき下ろされてしまった。イモラでフォーメーション・ラップ中に僕がミスを犯したことは認めよう。でも、今までの172グランプリのキャリアの中で、僕はそんなにしょっちゅうこのようなミスを犯してきただろうか?

 イタリア・プレスによってこんな風にめちゃくちゃに言われるほどに。でも、この問題に関して、みんなは僕がスクーデリア・フェラーリやその管理責任者に関して事実を述べてきたことを、許そうとしなかった。僕がこの事実を繰り返し述べてきたのはまさに、自分に多くをもたらしてくれた、また同様に自分も多くをもたらしてきたこのチームのためを思ってのことではなかっただろうか? でも、結果はこういうことだった。イタリアのプレスは、事実を真正面から見つめることよりも、事を大げさに騒ぎ立てるスキャンダルな動きに耳を傾けることを選んだのだ。

 彼らには申し訳ないが、僕はほんの少しのまともなジャーナリストを除いては、イタリアのプレスとはもう口をきかず、質問にも答えない決心をしていた。僕がこう言えば、読者のみなさんにはアルプスの向こうの騒ぎの大きさを理解してもらえると思う。でもそうすることによって、僕は静かに自分の仕事を続けることができたのだ。

 こうしてイタリア・プレスの問題にケリをつけたところで、モナコの話に入ろう。予選の2日間でいちばん大切な事柄は、フェラーリのエンジン担当者たちの素晴らしい仕事ぶりだった。いくつかの改良、特にエレクトロニクスと排気系の改良のおかげで、僕とジャン・アレジはこの難しいモナコのコースにすっかり適応できるエンジンを用意されていた。

 そして、もうひとつ、これはふたつめの大切なことがらだけれど、シャーシに関してはエンジンのようにうまくはいかなかった。状況を簡単に説明するとこういうことだ。ショックアブソーバーやスプリングを硬くすると、フェラーリはその運動性能を失ってしまう。これはモナコでは大きな問題だ。だからといって軟らかくすると、凹凸のある路面、特にトンネルの中ではほとんど運転できないような状態になってしまう。仕方がない。不可能なことを試してみることも必要だ。

 確かに、妥協点を決めることは必要だ。でも、それを見つけることすら難しかったのだ。予選に関しても問題は大きかった。土曜日の午後、2セット目の予選タイヤをはくのが遅れた僕は、その性能を引き出すことができなかった。タイムアタックに入ろうという瞬間にチェッカーフラッグを受けてしまったからだ。僕は7位のポジションからスタートする以上になかった。

 それでも、僕は自信を持っていた。自分にとって有利な要素がたくさんあったからだ。モナコGPはいつも長いレースになり、もっとも信頼性のあるマシン、もっとも経験のあるドライバーをも疲れさせてしまう。これに関しては、僕は準備ができていた。少なくとも、自分にその用意があると考えることができたのだ。

 その上、僕は日曜日の朝のウオームアップで最速のタイムを記録していた。そして土曜日の時点で予測していたように、フェラーリは満タン状態では非常に性能が高いことが僕にはわかっていた。それはその通りだった。そして、インテルラゴスでもイモラでも、セナのマクラーレンがゴールまで同じペースを保てなかったこともわかっていた。たしかに、アイルトンは優勝はしたけれど、だれも彼を最後まで追い詰めてはいなかったのだ。

 したがって7位からスタートしても、僕にもまだチャンスはあった。そしてモナコGPの前半の展開は、僕が思ったとおりになった。マンセルを抜き、モデナとパトレーゼから解放された僕は、2位のポジションにいた。でも、予想もしていなかったことが起こったのだ。

 信じられないような出来事は、まず、バイブレーションという形で現れた。それはだんだんはっきりとしたものになり、僕はとうとうマンセルに追いつかれ、彼に抜かれるがままにならざるを得なかった。そして、その後は前輪のひとつを失ったかと思うくらいにマシンはもう運転できないような状態になってしまったのだ。僕はすぐピットに入った。ところがピットロードで、混乱は完ぺきなものになった。

 タイヤを4輪とも交換し、再スタートしようとした時のことだ。車が動かないのだ。フラットボトムの下に、おそらく車輪のナットのようなものがあったのだと思う。僕はその場で動けなくなり、トランスミッションは働こうとせず、メカニックは安定した場所にマシンを動かさなければならなかった。

 こうして、僕は3位のポジションに戻るチャンスを完全に逃してしまった。周回遅れの5位という、無名のポジションで僕はレースを終えていた。レース中のファステスト・ラップの記録も、ほとんど慰めにはならなかった。

 チャンピオンシップがどう展開しているか、僕にはよくわかっている。セナのうしろ、2位という僕のポジションは見せかけだけのものと言っていいだろう。4レースを終えたところで、僕たちの間には29ポイントの差がついてしまった。(訳・今宮雅子)

(次回はカナダGP編を掲載します)