91年Round 6 メキシコGP
(91年6月19日掲載)
記者会見をこなすプロスト(C)Chunichi
記者会見をこなすプロスト(C)Chunichi
◆ Round 6 メキシコGP
◆91年6月14〜16日 エルマノス・ロドリゲスサーキット
 ▽PP R・パトレーゼ(ウィリアムズ・ルノー) 
 ▽優勝 R・パトレーゼ
【プロストのメキシコGP】
 マシンのトラブルに、何かと不満を訴えていたプロスト。予選初日は7位ともう一つふるわなかった。2日目にばん回が期待されたが、タイム更新はならず、結局同タイム、同グリッドのままだった。決勝では、最初の2周でモデナ、モレノ、チェザリスの車に追い越され、巻き返しを図る間もなく、17周目でリタイア。これで今季6戦中3度目のリタイアだ。フィオリオ監督解任後、新体制で臨んだグランプリはこれで2戦目だが、プロスト、アレジとも一度も完走していない。

「完走できないだろう…」、17周リタイア

 メキシコにやってきたのは、グランプリの始まる直前だった。カナダGPの時に痛めた僕のノドはその後もますます悪化し、横になると激しいセキに襲われて、眠るために体を伸ばすこともできないような状態だったのだ。スイスでは、かかりつけの医師たちが僕をこの状態から救うために非常手段をとった。そしてどんどん汚染されていくメキシコの空気に浸るよりはと、僕はマイアミの暑さを選び、そこでの2日間をゴルフにあてたのだ。

 メキシコに到着すると、ジャーナリストたちが僕に詰め寄ってきたけれど−−僕はこの件を“ウィリアムズ事件”と呼ぼう−−、僕は一生懸命彼らを安心させるよう努めた。フェラーリとの契約は1992年まで続いているのだ。そしてそれだからこそ、予選に専念することが必要なのだ。僕は金曜日のフリー走行を50リッターほどのガソリンを積んで走り、おおまかなセッティングを決めようとした。

 しかし、すぐにエンジンが息切れすることがわかった。そして予選タイヤをテストする時になると、僕はひどい渋滞に巻き込まれてしまったのだ。波乱というのはレースの一部をなすものではあるけれど、でも、それは僕を不安にさせるものだった。ただ単純に、僕は技術的な問題の中で出口を見つけられずにいたのだ。

 そしてエンジンが交換された後の午後の予選では、僕はマシンが良くないことを改めて確認していた。ひとつは、V12がまたしてもあまり快調ではないこと、もうひとつは僕自身がセッティングの部分でミスにはまり込んでしまったことだ。

 実際には、僕は昨年のように柔軟性があり、運転のしやすいセッティングに近づけようとしていたのだ。それで僕は成功することができたのだから。でも今年は、フェラーリの動きはまったく変わってしまった。すべてがうまくいかないのだ。それで、土曜日にはマシンを元に戻すことを僕は決心していた。運転のしやすさに関しては、あきらめるしかない。

 それが正しい方向であったことを、僕は確信することができた。そしてもっとその力を発揮させるために、エンジニアのルイジ・マッツォーラと一緒にサスペンション、ダンパー、車高をふたつのタイプのセッティングで考え出した。しかし、状況、特に気象条件のせいで、それはうまくいかなかった。ふたつのタイプのセッティングを、必要なだけチェックすることができなかったのだ。

 2日間の予選が終わった後、僕はまったくはっきりしない状態にはまってしまった。それだけではなく、エンジンもまたずっと調子の悪いままだった。僕の考えでは、これはメキシコ特有の問題だと思う。標高に合わせたセッティングをするのに、フェラーリのエンジン担当者たちは進路を誤ってしまったのだ。2240mの標高は、あまりにも重く感じられた。そしてそれは、非常に高回転で−−高回転すぎるところで−−発生するトルクに表れていた。最終コーナーやストレートではいいのだけれど、長い曲がりくねった部分ではV12はまったくトルクを欠いてしまうのだ。

 これらのデータのすべてを考え合わせると、方法はひとつしかなかった。勘でセッティングを決め、それをウオームアップのあいだにテストするのだ。でも、30分はあまりにも短く、僕に選択の余地はなかった。僕は穏やかな天候と、乾いたコースに合わせてマシンを作り上げていた。雨が降ったら、もうおしまいだ。ところが天気予報は、14時以降には60%の確率で雨が降ると伝えていた。それはスタートの時間だ。

 仕方がない。他に方法がないのだ。僕はエアロダイナミクスの効果を最小限に抑えた。雨が降った場合には不快な方法ではあるが、うまくいけば他のマシンを抜いて、7位のグリッドから上がっていくことができる。レースになればわかるだろう……。

 残念ながら、ウオームアップの結果は、僕をもっと悲観的にするものだった。今までに試したエンジンの中でも、この時使ったものは最悪だったのだ。まったく、マシンを押してくれない。シャーシに関しても、ドライビングしにくいものだった。凹凸の多いメキシココースで、その凹凸ごとにマシンは危険な反応を示すのだ。

 僕は、クラウディオ・ロンバルディにこの状態ではレースを最後まで走ることもできないだろうと言ったほどだった。そしてジャン・アレジのコースアウトは、僕の言葉をますますはっきりと証明するものだった。彼のマシンは突然バランスを崩し、クラッシュしてしまったのだ。

 そんなわけで、僕は他の方法に頼るしかなかった。ルイジ・マッツォーラ、ジャン・クロード・ミジョーと長時間仕事をして、何とか方法を見つけだすことができた。友達が言うように、これはほとんどきゅう覚だった。というのは、いったんスタートすると、マシンは満タン状態ではコンペティティブになっていることがわかったのだ。あえて、「去年と同じように」と書こう。

 僕はいつもの作戦を実行していた。レースの序盤ではあまりアタックせず、特にタイヤを大事にすること。そしてその後、僕は攻撃に備えていた。その間には、ファステストラップも記録していたのだ。つまり、すべてがうまくいっていたということだ。が、僕はこの理想的な状態に長くとどまることができなかった。突然、エンジンが異音を発しだし、それはどんどんひどくなり、そして完全に止まってしまった。オルタネーターが死んでしまったのだ。たぶん、マシン全体の過熱状態のせいだろう。フェラーリ642退場−−この言葉が現れればすぐに、643は走行を開始する。それは、これからのフェラーリだ。(訳・今宮雅子)

(次回はフランスGP編を掲載します)