91年Round 10 ハンガリーGP
(91年8月14日掲載)
不気味な“予言”を残してピットを去るプロスト(C)Chunichi
不気味な“予言”を残してピットを去るプロスト(C)Chunichi
◆ Round 10 ハンガリーGP
◆91年8月9〜11日 ハンガロリンク
 ▽PP A・セナ(マクラーレン・ホンダ)
 ▽優勝 A・セナ
【プロストのハンガリーGP】
 ニューエンジンを手にしたプロストは、4番手グリッドからスタート。セナ、パトレーゼのシ烈な先陣争いを後方から見ながら、マンセルの背後につき、チャンスをうかがう。マンセルは暑さのためグロッギー気味で、レース運びに精彩を欠いたが、プロストはパスできず、追走するのみ。逆に28周目、エンジン異常でベルガーにパスされ、29周目にリタイア。

「セナとの話し合いは建設的で、平和が戻ってきた」

僕個人の短い歴史の中でも、1991年の夏は困難な時期として残るだろう。これは、純粋に技術とレースの部分でのことだ。ドイツGPはあのように本物の苦難だった。まず、ウンベルト・アニエリの発言だ。あれは、スクーデリア・フェラーリの平穏をおもしろくないと思っている、フィアット・グループ内の性格や考え方の暗い人間たちによって操作されたものだった。

 幸い、フィアット・グループのボスであるジャンニ・アニエリは個人的に僕を安心させようとしてくれたが、そのあとにはイタリア・プレスとのいざこざが起こった。彼らの態度は日増しにスキャンダラスなものになっていたのだ。それでも、こういった面の問題は解決されたように思われた。僕はこの戦争にある程度の静けさを認めていたのだ。そしてドイツGPのあとで僕はセナに復しゅうすると公言した。彼は、僕を抜かせないためにどんなことでもしたのだ。中でもいくつかの危険なブレーキングは、承認できないものだった。

 この発言のために、僕は執行猶予つきの1レース出場停止という処分を受けた。そして、自分が誠実であることを証明するテレビ映像の前で、FIAのメンバーと対決することになった。でも、それは有益な結果をもたらした。セナと僕は和解したのだ。もちろん、去年モンツァで起こったこと(僕たちは記者会見で握手した)、それから日本で起こったことを考えると、関係者のほとんどはこの和解を真実のものだと思わなかっただろう。それでも、僕には真心のこもったものに思われたのだ。

 モンツァでは、セナは僕と握手をするようイタリア・プレスに強いられたように感じていた。でもプダペストでは、彼にはその用意があり、彼の方から僕に対して最初の一歩を踏み出してきたのだ。1時間以上に及んだ僕たちの1対1の話し合いは、本当に建設的で、かつ客観的なものだった。それが役に立ったのだ。次々に事実を検証していくうち、僕たちはある事実を確認した。彼の周りにも僕の周りにも、そしてチームの中にさえ、個人的な興味のために僕たちをお互いに対立させようとする人間がいるということだ。こうしてこの件は落ち着き、平和が戻ってきた。

 プダペストのレースの話に入ろう。土曜日の朝まで、僕は理想的なドライビングをすることができた。金曜日からすでに、レースセッティングは良かったし、午後には予選のためのフレッシュ・エンジンで2台のマクラーレン・ホンダの後ろ、3位のポジションを得ることができたのだ。シャーシはコンペティティブで、エンジンがやや力を欠いているということも理め合わせていた。そして土曜日の朝、レースセッティングで満タンにしたマシンは、完ぺきな状態だった。午後の予選にはどのように備えればよいかも、僕にはわかっていた。そして午後の予選のためにエンジンを新しいものにするため、早めに走行を終えたのだ。

 本当のことを言うと、僕は新しい可変の吸気トランペットを備えたV12を使うはずだった。トランペットの高さが変化することによって、高回転でのパワーは増し、低回転からの立ち上がりも良くなるというものだ。しかしながら、これをテストしていたアレジによると、この新しいシステムは満足のいくものではないということだった。したがって、こういう選択が決定された。予選用には新しいエンジンに従来の吸気システムという組み合わせを使うのだ。

 すべては、今までのエンジンと同じように作動すると、エンジニアとしてロンバルディは僕に確約した。ところがそんなことはなく、まったく逆だったのだ。プダペストでは欠かすことのできない1列目、もしくはポールポジションを獲得する代わりに、僕は2列目のイン側、4位のポジションを得るにとどまった。絶対にもっとうまくやれたはずだ。こんなことがわかっていたら、僕はセナの後ろ2位のタイムを出し午前中のエンジンをそのまま使っていたのだから。仕方がない。例外的な場合を除いて、僕はレースで勝つチャンスを失ったのだ。

 日曜日のウオームアップは、前日の失望の大きさを確認するばかりだった。僕は、勝てるマシンを持っていた。30分のウオームアップの末、僕は直接の競争相手であるパトレーゼを1・1秒、マンセルを1・5秒、セナを1・9秒引き離していたのだ。スタートではすべてを試みたが、4位のポジションを守る以上のことはできなかった、僕は問題なく周回を重ねていた。それは周回遅れの処理で遅れたあと簡単にトップグループに追いついたことでも証明された。しかし、セナの後ろのパトレーゼやマンセル以上の希望を持つことはできなかった。そして、レースの中盤すら迎えることなく、エンジンは突然ブローしてしまった。

 追伸
 このコラムを読むころには読者のみなさんはきっと、ハンガリーGPのあいだ中、僕のスクーデリア・フェラーリでの将来、僕のキャリアの将来が話題になっていたことを知っていると思う。今の時点でひとつだけ僕がはっきり言えることは、シーズンの終わりを待たずにフォーミュラ1の世界に大変動が起こりそうだということだけだ。(訳・今宮雅子)

(次回はベルギーGP編を掲載します)