93年Round 8 フランスGP編
(93年7月7日掲載)
真剣なまなざしでモニターを見つめるプロスト(C)Chunichi
真剣なまなざしでモニターを見つめるプロスト(C)Chunichi
◆ Round 8 フランスGP
◆93年7月2〜4日 マニクール・サーキット
 ▽PP D・ヒル(ウィリアムズ・ルノー)
 ▽優勝 A・プロスト(ウィリアムズ・ルノー)
【プロストのフランスGP】
 ▽予選 1分14秒382 2番手
 ▽決勝 1時間38分35秒241

「僕はバックミラーで彼を凝視し続けた」

 マニクールに行く前に、僕はすごい量の距離を走った。ただし、自転車でね。読者のみなさんもたぶん知っていると思うけど、ドイツGPの直前に行われる自転車レースに出場しなければならないからなんだ。

 もちろん、ウィリアムズ・ルノーでもたくさん走った。シルバーストーンでは、エンジン、シャシー、そして、特にブレーキのテストをやったんだ。フランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドは、レースの本番では初めてABS(アンチロック・ブレーキ・システム)を採用することを決めていた。その名の示す通り、これはブレーキのロックを防ぐためのシステムだ。

 この種のシステムに関する僕の見解を述べておこう。ABSを使ったときと同じくらいうまくブレーキングすることはF1ドライバーの義務だと思う。トラクション・コントロール・システムがなくても、ホイールスピンを起こさずスタートをきることもね。

 何度かテストした結果、僕たちはどんな小さな問題にも遭遇することなく、ABSを使って3000km近くの距離を走っていた。それでも、マニクールでは金曜日の朝のフリー走行でスピンする羽目になってしまったのだ。

 ピットに戻ると、僕はレースでこのシステムを使うことを延期したいとフランクに告げた。たった一度のブレーキングでタイヤはボロボロ、その原因はすべてコンピューターのプログラミングのミスだったのだ。僕にとってとても貴重なグランプリの途中で、また同じリスクを冒そうとは思わなかった。

 マニクールにやって来た時には、僕の胸は期待でいっぱいだった。僕の友人で、フェラーリ・フランスの社長であるダニエル・マランは、僕とジャン・アレジのためにパリにヘリコプターを送ってくれた。ジャンはマニクールのすぐそばに別荘を借りていて、そこでは律義な女性が僕たちの食事を作ったり、世話をしてくれた。渋滞を避け、束の間の平穏を手にいれるのに、これは最高の方法だ。フランスGPの際、フランス人ドライバーがとても頻繁にかつぎ出されるのは当たり前のことだけれど、僕の場合も、スケジュールはびっしり埋まっていた。あまりにも忙しくて、プロモーションの仕事をいくつか断らなければならなかったくらいだ。

 レースの話に戻ろう。結局、金曜日の朝のABSのトラブルはその後の予選に大きく影響し、デーモンは金曜日の予選でトップタイムをマーク、土曜日の予選では彼のポールポジションが確定した。僕も最大限の力で走った。同時に、なぜ、トップのタイムを実現できないのかも、わかっていた。マニクールは特殊なサーキットでコースの最初の4分の3は、タイヤにとって非常に厳しいところだ。

 2回にわたってこの区間で最高のタイムを出したもののシャトー・コーナーにさしかかったところで、僕のタイヤはもう十分なグリップを保ってはいなかった。そして、シケインに入る時点で、スピードは落ちてしまっていたのだ。

 デーモンは僕よりうまくこの難関をくぐり抜けていた。彼は巧妙にも(勇敢にも)ABSを使い続けていたのだ。それが功を奏した。僕の方には、もうポールのチャンスは残っていなかった。日曜日の朝のウオームアップは、僕に一つの解決法をもたらしてくれた。いつものようにスペアカーを少し走らせた時、それがすごく運転しやすく、バランスもいいことがわかったのだ。その後、レースカーを3周走らせた後、僕はピットに戻り、スペアカーを使用することを真剣に検討しなければならないと、フランクに告げていた。そして、ウオームアップの数分後、僕はある程度の懸念を抱きながらも、決心していた。

 実際、シルバーストーン・テスト、フランスGPの予選の間もずっと、僕は自分のレースカーを気に入ることができないでいたのだ。不安定で、素直なところがなく、強情で、不愉快なマシンだった。それでも、それが自分のレースカーで、2回の勝利を僕に与えてくれたマシンであることに違いはない。スペアカーを使うのは恐らく、いい選択だろう。でも、5戦も前から、僕はこのマシンをさわっていないのだ。ちゃんと整備されているだろうか? スペアカーは完ぺきに整備されていた。担当のスタッフにはこの手記を通してもお礼を言いたい。本当にこのマシンをドライビングできるのは大きな喜びだった。

 僕が2位のグリッドからスタートすることについて、みんなが質問してきた。デーモンはチーム・オーダーを受けているのか? あるいは僕に抜かせるよう命令されているのではないか? と。レースを見てもわかるように、彼はどんな命令も受けていなかった。たった一つだけ、チームメートと接触しないように、ということを除いてだがね。でも、これは僕も同じように言われたことだ。

 デーモンは手ごわかった。彼を抜くために、僕はいつもの作戦を遂行した。デーモンがタイヤ交換のためにピットに入った。本当なら、僕は次の周回でピットに入らなければならなかった。でも、実際にはあと1周、待ったのだ。そして、その間にリードを築こうとした。

 ピットロードに向かう途中ではマシンのコントロールを失いそうになったくらいだ。メカニックが正確なタイヤ交換を終え、レースに戻った。トップで。デーモンの前だ。

 タイヤはまだ十分に温まっておらず、デーモンはチャンスを試そうとした。でも、決してリスクを冒してはならないということを、僕は彼に理解させていた。彼の道を閉ざしたわけじゃない。ただ、通り抜けるだけのぎりぎりのスペースをあけたのだ。彼は危険を冒そうとはしなかった。

 その後も彼はコンスタントにプレッシャーをかけ続け、差は1秒以上に広がることはなかった。バックミラーを通し、僕は彼を凝視し続けた。でも、自信はあった。こうして、僕は49回目の勝利、フランスGPでは6度目の勝利を手にしていた。この記録をとても誇りに思う。フランス国旗を手渡すためにオフィシャルの一人に止められた時、僕はこの誇りと幸せをかみしめていた。(訳・今宮雅子)

(次回はイギリスGP編を掲載します)