3、4年後にはF1ドライバー!
中日新聞東京本社を訪れタイトル獲得を報告
東京中日スポーツの土岐正紀総局長と握手をするFCJ王者の松下信治(カメラ=武藤健一)
東京中日スポーツの土岐正紀総局長と握手をするFCJ王者の松下信治(カメラ=武藤健一)
 フォーミュラ・チャレンジ・ジャパン(FCJ)の2012年度王者に輝いた松下信治(19)が23日、東京都千代田区の中日新聞東京本社へタイトル獲得の報告に訪れた。松下はフェラーリのミハエル・シューマッハー(44)の姿にあこがれてレーシングカートを始め、2012年3月にフェラーリアカデミーに参加してFCJを制するテクニックを培うなど、何かと「跳ね馬」との縁が深い。もちろん目指すはフェラーリが君臨するF1ドライバー。まずは今季ステップアップ予定の全日本F3で活躍し、夢を現実に変える。

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 シリーズがスタートした2006年を除き、FCJ初のルーキー王者となった松下信治。それ自体も快挙なのだが、タイトルを獲得するまでの道のりもまた劇的だった。

 シーズン残り3戦が行われる最終ラウンドを迎えた時、ランク首位を走る平川亮と2位・松下との差は9ポイント。「SRS−F(鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ)で何度も走った得意の鈴鹿が舞台だし、3戦全て勝てば自力でチャンピオンを決められる。自信はあった」と意気込んで臨むも、最初のレースはライバルの平川が優勝。2位に甘んじた松下との差は14ポイントに広がった。

 これでたとえ松下が残り2戦に連勝しても、平川が2戦連続表彰台なら逆転チャンプは不可能。普通なら集中力が切れてしまいそうな窮地にもかかわらず、逆に闘志が湧いてきたというから頼もしい。

 「もう駄目だという気持ちよりも、残り2戦は自分のベストを尽くし、自分にできる最高のポジションで走りきろうと思いました。開き直りというのかな。そうやってシンプルに考えられるようになったことが、かえって良かったのかも」。結果は優勝&2位で、0周リタイア&5位の平川と91ポイントで同点に。優勝回数はともに5回だったが、2位の回数で平川を1回上回り(4回VS3回)、土俵際でうっちゃった。

 モータースポーツを始めるきっかけは偶然の産物。「僕が4歳になるかならないかの時、父がF1日本GPのチケットを知人から手に入れたんです。父はレースにはほとんど興味がなかったそうですが、せっかくだから家族で鈴鹿に行こうという話になり…。そこでフェラーリのミハエル・シューマッハーを初めて見たんです」。2番グリッドからシューマッハーが優勝した1997年の日本GP、そこでモータースポーツのとりこになった。そして日本GP終了後、たまたま聴いていたFMラジオのNACK5でレンタルカートコース「クイック羽生」の存在を知り、レーシングカートに乗るようになった。跳ね馬に乗るシューマッハーとの出会いがなかったら、カーレーサー・松下は誕生していなかったかもしれない。

 フェラーリとの不思議な縁はほかにもある。2011年に参戦したフォーミュラ・ピロータ・チャイナでシリーズ2位になり、フェラーリの若手育成プログラム(フェラーリ・ドライバー・アカデミー)の切符を獲得。2012年3月に約1週間、フェラーリのテストコースがある伊フィオラノで武者修行するチャンスを得た。

 「F3のマシンでテスト走行するだけでなく、ファクトリーに行ってF1マシンを間近で見たし、F1のシミュレーターも経験しました。ドライバーとして成長する技術も身に付けられましたが、いつかここに来るという野望が生まれたのが一番大きいですね」。この瞬間にF1が単なるあこがれから、確たる目標へと変わった。

 今季の参戦カテゴリーはまだ正式に決まっていないが、全日本F3に昇格するプランが濃厚。「どのカテゴリーでもFCJのように参戦1年目から結果を出し、チャンピオンにならなければと思っています。僕は今後3、4年以内にF1にいくつもりでいますから」。どんなに高き頂であろうとも、乗り越える覚悟が松下にはある。 (千葉亨)
 ▽松下信治(まつした・のぶはる) 1993(平成5)年10月13日生まれ、19歳。さいたま市出身。4歳でレーシングカートを始め、05年から全日本ジュニアカート選手権に参戦。08年にオープンマスターズカートARTAチャレンジで王者になり、頭角を現した。11年にSRS−Fを首席で卒業し、スカラシップを獲得。12年にFCJ参戦1年目ながらタイトルを獲得した。私生活では夏にサーフィン、冬はスキーを趣味とするスポーツマンだ。