体制一変JSB1000参戦
「勝負の時が巡ってきた」と気合が入る津田一磨
「勝負の時が巡ってきた」と気合が入る津田一磨
 全日本ロードレース選手権の最高峰「JSB1000クラス」に4年連続で「チーム・ベビーフェイス」が挑戦する。ライダーは同じく4年目の津田一磨(31)だが、今年はチーム体制が一変。まずバイクがヤマハからヨシムラチューンのスズキ「GSX─R1000R」に替わった。そしてレジェンドライダーの辻本聡氏(60)をアドバイザーに迎えてぐっと厚みを増した。プライベーターの雄を目指すとともに、“1強”のヤマハファクトリーへ果敢に挑む。

佐藤監督4年目さらなる飛躍へ

情熱を燃やす佐藤監督
情熱を燃やす佐藤監督
 今季のJSB1000はホンダワークスとカワサキのチームグリーンが撤退し、ヨシムラ、モリワキの名前もエントリーリストから消えた。それれだけに、強力なプライベートチームによる群雄割拠の時代に突入したことは確実。その混戦に割って入りそうなのがベビーフェイスだ。

 本体は大阪府富田林に本社を置くバイクのパーツメーカー。現在は米国へも規模を拡大、バッグステップや、ペダル、フレームスライダー(転倒時のエンジンへのダメージを軽減するパーツ)など同社の製品は多くのバイクユーザーに愛用されている。全日本や海外を戦うライダーたちのマシンやツナギにも「Baby Face」のロゴを数多く見ることができる。

 地方選手権や全日本ロードを会社としてサポートしてきたが、2017年から最高峰JSB1000クラスに参戦開始。チームを率いる佐藤勝彦監督は「懸命に頑張るライダーを支援できることがうれしい。それはベビーフェイスという名前を多くの人に届けることにつながる」と語る。佐藤監督の支援でレース活動が続けられているライダーは数多く、レース界を支える人物として知られている。

 佐藤監督のバイク好きは筋金入りだ。実家は年商500億円を下らない土木会社を経営。事業を継ぐことを求められ、入社したものの、25歳の時に「好きなバイクで生きていきたい」と退社。単身、バイク用品メーカー「RSタイチ」の門をたたいて修業に身を投じた。その後は独立して「ベビーフェイス」を設立し、パーツ開発、販売に没頭してきた。同業者としてヨシムラとの付き合いも長いため、今回ヨシムラのバイクをレンタルできたのも、佐藤監督への信頼があってこそ。

 同監督はレース界と深く関わっており、ロードレース世界選手権(WGP)ライダーたちとの付き合いや、鈴鹿4時間耐久ロードレースなどに参戦経験はあったが、本格的にレースに取り組みだしたのは津田一磨と出会ってからだ。

 一磨の兄は、ヨシムラで活躍した拓也(34)。一磨にとってはライバルであり、自身の「負けず嫌い」に火をともし続ける存在という。兄がバイクに乗っているから自分も始め、鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS)に兄が入ったから、自分も当然のように進んだ。

 「初めてバイクに乗った5歳の時、父が『兄と競争だ』って言うので、負けたくなくてアクセル開けて壁に激突したことを鮮明に覚えている。兄がひと足先にSRSに入ったのが悔しくて、一緒に通いたいと暴れたことも。兄がヨシムラで活躍し始めて、オレだってと思った」

 2002年、14歳で新人ライダーの登竜門とも言われる鈴鹿4時間耐久ロードレースで2位に入り順調なスタートを切り、名門「桜井ホンダ」に入った。そこまでは良かったが、その後は伸び悩み、一時は引退を考えた。だが13年、兄の拓也が辻本聡に見いだされてヨシムラライダーに抜てきされ、活躍しているのを見て再起を決意した。

 それからは不定期ながらも全日本参戦を続け、14年にST600クラスフル参戦をつかんだ。ところが翌15年、残り2戦で所属チームが解散。その危機を救ってくれたのが、パーツを提供していたベビーフェイスの佐藤監督。「津田を走らせようと動くスタッフの気持ちが伝わってきた。ライダーとしての才能だけでなく人間性も魅力だった」と、残り2戦の資金をサポートしてくれた。

 この縁で、16年に鈴鹿8耐でタッグを組んで出場(22位)。17年から本格的に全日本のJSB1000に参戦を開始する。だが、プライベーターにとって最高峰クラスの壁は厚く、同年ランキング30位、18年20位、19年16位。また、津田は昨年は全日本のみならず、代役参戦でアジアロードレース選手権にも参戦してスキルを磨いた。

 今季、佐藤監督は、さらなる飛躍を目指してマシンをヨシムラにチェンジ。津田は「勝負の時が巡ってきた」と確信する。

 そして津田は、さらなる強化策として辻本に狙いを定め、「兄がお世話になっていたこともあって、トレーニングを一緒にさせてもらっていたので、レースへ向き合う姿勢を尊敬していた。兄が活躍できたのは辻本さんの力が大きいと感じていた」と獲得に動いた。佐藤監督もこれに同意し、辻本も「レース人生最後の仕事」として受け入れた。

辻本氏がアドバイザー就任により化学反応がチームに生まれ始めた

レース解説でもおなじみ辻本氏
レース解説でもおなじみ辻本氏
 辻本氏はまさにレジェンドライダー。1985年に国際A級昇格と同時にヨシムラ入り、その才能を一気に開花させて当時の最高峰クラス「TT─F1」のチャンピオンに輝いた。翌86年もV2達成。この年は鈴鹿8耐でケビン・シュワンツ=93年ロードレース世界選手権(WGP)500cc王者=と組んで3位表彰台をゲットした。87年にはアメリカスーパーバイク選手権(AMA)に挑戦し、シュワンツやウェイン・レイニー(90〜92年WGP500cc王者)と互角の戦いを繰り広げた。だが、シュワンツの転倒に巻き込まれクラッシュし、大けがを負って帰国。89年には奇跡的の復活を遂げて、スズキワークスライダーとして全日本のGP500クラスで活躍した。

 特に鈴鹿8耐では好成績を挙げ、93年はエディ・ローソン(4度のWGP王者)、95年は伊藤真一とペアを組んで2位に入っている。“夏男”と呼ばれ、80年代から90年代は常に優勝候補の筆頭に挙げられてきた。2014年にはヨシムラ60周年を記念してシュワンツらとともに鈴鹿8耐に参戦し話題になった。

 「ポップ吉村(創業者の吉村秀雄氏)に見つけてもらって育ててもらった。レースの魅力は人だから、自分も一磨の助けになりたいと思う。そして、ベビーフェイスというチームの底上げができたらと思う。魅力あるチームがあるということは、将来あるライダーたちにとってチャンスにつながると信じる」と辻本氏はアドバイザーに意欲を見せる。

 ベビーフェイスの3人が顔を合わせたのは、3月下旬の鈴鹿サーキットのテストだった。初めて駆るマシンに、ライダーもチームも期待と不安が入り交じる中で、津田は確実にタイムを上げていき、最終的には自己ベストとなる2分7秒台を記録した。

 トップタイムはヤマハファクトリーの中須賀克行の2分5秒台と、まだその差は大きいが、「ちょっとトラブルがあって、9秒くらいしか出てなかった。それでも、辻本さんが走行ラスト10分、トラブルがある中でも『最後まとめて来い』と、コースに送り出してくれた。それで7秒台が出た。このタイムで一気にチームの雰囲気が変わった」と津田。辻本氏の一言がなかったら「走らずに終了していただろう」と津田は言う。

 この最後の7秒で「まだまだいける」という大きな手応えを残した。津田は「(新型コロナウイルスの影響で)レースがなかなか始まらずに残念だけど、このタイムのおかげで前向きな気持ちでいられる」と成果を強調した。

 戦闘力の高いヨシムラチューンのスズキGSX─R1000Rを得て、プライベーターとして戦ってきた津田が「しっかり結果を残すことが、これまで自分を走らせてくれた人たちへの最高の恩返しになる」と、その力を示そうとしている。津田の最高位はST600時代の4位。「なんとしても表彰台の夢をかなえたい」と語る。辻本氏も「表彰台、そして優勝を目指してほしい。ヤマハファクトリーの手ごわさは、誰もが知っているが、チャンスは必ずある」と意気込む。佐藤監督も「全日本、鈴鹿8耐で、通用できるチームになるためのステップ」と目標を定めた。ベビーフェイスが、全日本、鈴鹿8耐をかき回すシーズン開幕が待たれる。

 〇…津田一磨には「いつか兄と鈴鹿8耐に出たい」との願いがある。背中を追い掛けた兄・拓也がヨシムラで活躍したことで「自分をもう一度信じよう」と思わせてくれた。届かない存在と思ってきた兄にやっと肩を並べることができるかもしれないという予感がしている。

 〇…新型コロナウイルスの影響で、他のスポーツ同様、全日本ロードレースの開幕が延期されているが、ベビーフェイスの面々は、来るべき開幕に向けて準備を整えながら戦いの時を待っている。辻本は「開幕を迎えるためには、個人個人の自覚が大切、モータースポーツ従事者はお手本となるように不要不急の外出を避け、感染防止に努めてほしい」と警鐘を鳴らしていた。