モビリティランド・山下晋社長に聞く
スーパーGT第6戦鈴鹿1000km特集
鈴鹿1000キロ、そして来年からの鈴鹿10時間への思いを語ったモビリティランドの山下晋社長
鈴鹿1000キロ、そして来年からの鈴鹿10時間への思いを語ったモビリティランドの山下晋社長
 1966年に始まった伝統の一戦「鈴鹿1000キロ」が今年限りで幕を閉じる。独自の車両規則のツーリングカーレースで始まり、プロトタイプのグループCカーなどを経て、2006年からはスーパーGT(SGT)の一戦に組み込まれる変遷を遂げてきたが、名称は変わることはなかった。来年からは国際自動車連盟(FIA)のGT3車両を使った「鈴鹿10時間レース」に進化する。鈴鹿サーキットを運営するモビリティランドの山下晋社長(61)に懐かしい思い出、そして新たな挑戦への熱き思いを語ってもらった。

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第1回(1966年)記念すべき第1回の鈴鹿1000キロを制覇した福沢幸雄組のトヨタ2000GT(モビリティランド提供)
第1回(1966年)記念すべき第1回の鈴鹿1000キロを制覇した福沢幸雄組のトヨタ2000GT(モビリティランド提供)
 −鈴鹿1000キロはどんな経緯で始まったのですか?

 山下社長「私は1980年入社なので、残念ながら第1回大会には携わっていません。ただし、三重県出身なので、子どものころ第1回の日本グランプリ(1963年)に連れて行ってもらい、いろんなクルマがまぜこぜに走っているのをとても楽しく観戦した記憶があります。富士スピードウェイができて日本グランプリが移り、鈴鹿でもハコ車のレースを−という発想の中で、直接ということではないでしょうが、日本グランプリの延長線で始まったようです」

 −いろいろなシリーズとして開催されました

 「1000キロ開催から何年かして、2輪の8耐が始まりました。いろいろ規則は変わりましたが、8耐は始めから市販車ベースのレースとして開催し、今年で40回目を迎えました。一方で1000キロは長い歴史の中でさまざまな変遷があって、鈴鹿の4輪レースで最も長い距離を走ること以外は時代によって変化を続けてきました」

 −山下社長の一番記憶に残っているレースは?

 「本当にさまざまなクルマが走ってきましたが、一番印象に残っているのはCカー(プロトタイプ)が走っていたころですね。トヨタ、マツダ、日産さんがほぼワークス体制で走っていて、私も直接運営に関わっていました」

 −印象深いことは?

 「1989年だったと思いますが、台風の直撃を受けました。全ての用意を済ませていたのですが、12月に延期しました。真夏の1000キロが真冬になって(笑い)。台風が直撃したときはすごい雨嵐で…。ピットレーンが川のようになり、ガレージのシャッターが強い風で壊れそうでした。現場にいたので一番記憶に残っています」

 −06年からSGTに組み込まれました

 「安定したイベントを開催できました。特にGT500クラスのクルマはすごい高性能なので、素晴らしいタイムで走り切ってくれました。チームのみなさんも特別な思いを持って取り組んでいたようで、今年限りとなり、各チームから『何で−』という声をたくさんいただきました」

 −それでも新しい試みに挑戦される

 「今のシリーズ戦を否定するつもりは全くありませんが、7歳の時に見た第1回日本グランプリのように、エラン(ロータス)の後ろからミニクーパーが来て、その後ろにポルシェが走っているような、国内外のさまざまなクルマや人たちが戦う構図が耐久レースの楽しさではないか−という思いを抱くようになりました」

 −なぜ10時間なのですか?

 「今の高性能なクルマからすると、1000キロが少し短くなった感じがあります。欧州ではさまざまな24時間レースが開かれ、みんな実に楽しそうに戦っていらっしゃる。耐久ってこうじゃないか−思うようになりました。ただし、鈴鹿では周辺環境を考えると24時間はできない。最大が10時間。それでも周辺の方にご迷惑をかけると思いますが、行政との関係も一から築き、地域の夏祭りのようなレースにしていきたい」

 −独自レースはリスクを伴いませんか

 「ブランパンのポイントはつきますが、SGTシリーズには組み込まれません。危険なチャレンジかもしれませんが、今年で55年になる鈴鹿サーキットには、さまざまなイベントを経験してきたスタッフもいます。もとは手作りイベントの8耐も40年間の努力で世界に評価されるイベントに育ててきた。1000キロもそれを目指して、リスタートしたい。1年や2年で結果が出るとは思っていません。鈴鹿が100周年を迎えているころ、伝統の一戦として世界から認められていたいですね」

 −最後に

 「鈴鹿1000キロは今年で幕を下ろしますが、鈴鹿10時間レースを4輪耐久の真夏の祭典として進化させます。同一カテゴリーのクルマが、50台のフルグリッドから同時にスタートする、迫力あるレースをお見せできるように準備を進めていきます」
第3回(68年)68年の第3回大会のスタート。福沢幸雄組のトヨタ7が優勝した(モビリティランド提供)
第3回(68年)68年の第3回大会のスタート。福沢幸雄組のトヨタ7が優勝した(モビリティランド提供)
 ▼関谷正徳トムス監督(1987、95年優勝)「RX−7で寺田(陽次郎)さんから誘われて出た時に、のびちゃったことがある。1981年だったかなぁ〜。当時はクールスーツもなかったし、今で言う熱中症だよね。初めてレース中に意識がなくなった。その後、トヨタのCカーやマクラーレンのGTカーで勝っているけど、のびたのが強烈な印象だね。なくなるのはものすごくもったいない。歴史的なレースだからすごく残念。文化だから−」

 ▼星野一義インパル監督(1990年優勝)「1000キロはシリーズの中でもビッグイベント。すごく意識している。雰囲気も特別だし、良い結果を残したいと思ってきた。選手としてはノートラブル、ノーペナルティーで速く走ることを心掛けた。それはルマン24時間などにも役立ったね。マシンをコントロールするのはもちろん、自分をいかにコントロールできるか−。その1000キロがなくなるのは寂しいよ。2輪で言えば8耐のような存在だからね」
第13回(84年)Cカー全盛の84年。高橋国光組のポルシェ956が勝った(モビリティランド提供)
第13回(84年)Cカー全盛の84年。高橋国光組のポルシェ956が勝った(モビリティランド提供)
 ★鈴鹿1000キロ 2輪の8時間耐久レースとともに夏の鈴鹿サーキットを代表する4輪耐久レース。1966年に市販車ベースの車両を中心にスタートし、オイルショックの影響で74年から6年間休止したが、復活した80年に初めてグループCカー(プロトタイプカー)が総合優勝した。その後しばらくCカー全盛時代を迎え、93年から欧米のGTカーが参戦するようになる。90年代半ばから全日本GT選手権(現SGT)の車両も参戦するようになり、2006年からSGTの1戦に組み込まれた。09年、10年に700キロ、東日本大震災が起きた11年には500キロに短縮して開催した。
第18回(89年)真冬の1000キロになった89年。高橋国光組のポルシェ962Cが勝利(モビリティランド提供)
第18回(89年)真冬の1000キロになった89年。高橋国光組のポルシェ962Cが勝利(モビリティランド提供)
 ▼関谷正徳トムス監督(1987、95年優勝)「RX−7で寺田(陽次郎)さんから誘われて出た時に、のびちゃったことがある。1981年だったかなぁ〜。当時はクールスーツもなかったし、今で言う熱中症だよね。初めてレース中に意識がなくなった。その後、トヨタのCカーやマクラーレンのGTカーで勝っているけど、のびたのが強烈な印象だね。なくなるのはものすごくもったいない。歴史的なレースだからすごく残念。文化だから−」

 ▼星野一義インパル監督(1990年優勝)「1000キロはシリーズの中でもビッグイベント。すごく意識している。雰囲気も特別だし、良い結果を残したいと思ってきた。選手としてはノートラブル、ノーペナルティーで速く走ることを心掛けた。それはルマン24時間などにも役立ったね。マシンをコントロールするのはもちろん、自分をいかにコントロールできるか−。その1000キロがなくなるのは寂しいよ。2輪で言えば8耐のような存在だからね」