赤松孝撮影
赤松孝撮影
 まだまだ寒い日が続いていますが、確実に春の訪れを感じます。春は旅立ちの季節でもあり、今回はレース卒業を決めた関野海斗(ヤマハ)のお話です。日本最高峰の戦いが繰り広げられる全日本ロードレース選手権は、選ばれし者たちの戦いであり、世界の舞台を夢見る多くのライダーが切磋琢磨しています。ここで奮闘してきた関野は、2020年を最後と決めました。

 2020年最後のレースは三重県鈴鹿サーキット。ST600クラスに参戦する関野ですが、2度も赤旗が出る波乱のレース展開で、チェッカーなき最終戦となりました。チームメイトでタイトルを決めた岡本裕生(ヤマハ)は、「関野君のラストレースだったから、チェッカーを受けてほしかった」と残念そうでした。レース後、ライバルの水野涼(ホンダ)は関野のピットを訪れ、「また」と固い握手を交わして、これまでの健闘を称えました。他にも多くのライダーが関野の元を訪れ、挨拶していました。
 故阿部典史のファンである父親は、関野が小学校1年生になるとバイクに乗せ始めます。本人は嫌々で泣いてばかりでしたが、父親の「ご褒美をあげる」という言葉に釣られ、バイクに乗り続けました。初レースは2ラップ遅れのビリ。それが子供心に悔しさを植え付けます。そこから練習漬けの日々が始まり、2位表彰台に登るまでに成長。モトGPの中継を見て、いつかは「世界へ」と夢を見るのです。
 2013年、全日本ロードJGP3クラスに昇格、翌2014年には若手ライダー育成を目的としたアジアタレントカップのオーデションを受けます。アジア各国から将来を担うライダーたちが集まり、その数は600人を超えたといいます。そして関野は、ロードレース世界選手権(WGP)モト3で活躍する鳥羽海渡、佐々木歩、今季ブリティッシュスーパーバイク選手権に参戦する水野涼らとともに、見事合格。関野は「名前を呼ばれてびっくりした」と言いますが、その才能を認められ、同世代のライダーと切磋琢磨しながら、忘れられないシーズンを過ごしました。

 この年のことを関野は、「ツインリンクもてぎで開催されたWGP日本GP併催のタレントカップで、トップ争いをしたことを覚えています。家族を始め、応援してくれる人がみんな見ていてくれて、観客もすごい数で、そこでバトルができた。表彰台はちょっとの差で逃してしまって4位だったけど、印象に残っています」
 2015年〜16年は、名門7cに所属し、全日本ロードJGP3クラスでトップ争いにも顔を出します。チームの先輩ライダーでもある故富沢祥也に憧れていました。

 「富沢さんが全日本デビュー戦(2006年)でトップ争いをし、転倒してしまったレースを見て、ものすごいライダーだなと思いました。自分はまだ子どもだったけど、レース後にピットに入れてもらって、人柄にも触れて、大好きになって、富沢さんのようになりたいと思っていました」と語ります。

 2017年、新たな活路を求めてピレリカップに参戦し、ランキング3位を獲得。2018年からは全日本ST600に参戦し、昨季まで走り続けました。そして、富沢を目指して走り続けたライダー人生に、終止符を打つことを決めました。
 「大学(東海大学英語文化コミュニケーション学科)を卒業するタイミングで、就職を選択しました。ライダーとしてもっと結果を残せたのではないか、悔いがないと言えばウソになりますが、自分なりに真剣に取り組んできました。その時間に後悔はありません。レースと出会って、引っ込み思案で人とうまく話せず挨拶もできなかった自分が、コミュニケーションができるようになり、礼儀や時間厳守、人として大事なことを、サーキットで教えてもらいました。ここで、出会った人たちが、愛情をもって自分を鍛えてくれたと思っています」

 関野は、二輪事業部がある岡田商事株式会社に就職が決まっています。レース活動のなかでこの会社を知り、試験を受けたそうです。ライダーのサポートも行っている企業で、自身の経験を生かし、会社にもレース界にも貢献できたらと考えています。レースに真剣に向き合ってきた関野だからこそ、未来に向けできることがあるのだと思います。関野の新たな旅立ちを、少し寂しさを感じながらも、仲間たちは心からエールを送っています。この決断を良かったと思える人生を、歩んでほしいと願っています。