士気高めた11年間
「F1 SCENE」第5回・イタリア編
F1史上最強の時代を築いたフェラーリのマシンに感謝のキスをするM・シューマッハー=モンツァで行なわれたフェラーリデーにて(AP)
F1史上最強の時代を築いたフェラーリのマシンに感謝のキスをするM・シューマッハー=モンツァで行なわれたフェラーリデーにて(AP)
 ミハエル・シューマッハーが築き上げた勝利の山はこの11年間、イタリアの士気を大いに高めた。そして予想外にもF1をポピュラーなものにした。

 わが家の家政婦さんは小柄な60歳の女性である。関心のあるのは掃除や孫のことくらいだろう。そんな彼女がある日こんなことを言った。「あのね、シューマッハーがリタイアするのは残念ね。彼は本当にすごかったから」。恐らく、このイモラ(覚えてますか? ここでかつてグランプリが行われていたことを)から通っている初老の婦人の短い言葉が千の言葉より真実を語っている。イタリアにおける近年のF1の人気は文字通りシューによるところが大きい。なぜなら彼がフェラーリのドライバーだったから。いやそれよりも、彼が勝ったからだ。

 15年前、シューが最初にF1に現れた時、彼は無名だった。イタリア人は、不振にあえいで1勝も挙げられずにいるフェラーリのことが心配で、新人など構っていられなかった。事態はさらに悪い方向に向かい、シューは競争力のあるベネトンというチームで成功を収めつつあった。そしてすぐに彼は赤いマシンに乗る2人(J・アレジとG・ベルガー)を常に打ち負かすことになった。当時、F1はこの国では人気があったのか? 当然そうだ。だが、有名でなおかつ勝てるドライバーという「触媒」がいなかったのだ。

 素っ気ない言い方になるが、かつてのフェラーリとF1は、レースを見る人々をサーキットに詰め込むことができた。当時、娯楽は少なかったが、人々はちょっぴり裕福になっていた。一般的なイタリアの家庭は住宅ローンに苦しむことなく週末にはイモラやモンツァに行ける余裕はあったのだ。だから子どもはエンジンの咆哮(ほうこう)とトラックで展開されるショーに興じた。

 それは18世紀の話ではなく、90年代の初めのことだ。しかし、それから多くのことが変化した。シューがいなくなればテレビの視聴者とレースの観客は救いようがないほど減少することを私は確信している。

 だが、イタリア国民の心にはシューが生き続ける。すでに彼はイタリア国民の養子として見られているフシがある。ベネトンを走らせている時、彼は嫌なやつで汚いことをする選手だったが、彼が「赤」を身にまとうやいなやイタリア人は昔のことをすぐに忘れてしまった。もちろん、最初から勝たなければ事情は違っていただろうが、彼はフェラーリに来た最初の年(96年)に3勝したばかりか、選手権争いにも顔を出した(ランキング3位)。

 オーケー、97年ヘレスでのラフプレーがあった。でもご存じでしょう、イタリアではフェラーリは「国事」なんです。国の政治はしばしば真実さえも制圧することを……。

 だから、今年ドライバーズとコンストラクターズ両方のタイトルを逃したにもかかわらず、10月の最終週に行われたフェラーリの感謝イベントでは、モンツァのグランドスタンドは大合唱しながら跳ね馬の旗を振り続ける観衆で満杯になったのだ。それはまさにシューの盛大な送別会だった。

 フェラーリのディ・モンテゼモロ社長は「最後の瞬間まで、われわれは彼にドアを開けておいた」と言ったが、それは本当だろうか? 確実なのは、うちの家政婦さんでさえ、心からシューの引退を惜しんでいたという事実だ。(アルベルト・アントニーニ)

 ★97年ヨーロッパGP(ヘレス) M・シューマッハー(フェラーリ)はJ・ビルヌーブ(ウィリアムズ)とし烈なタイトル争いを展開、わずか1ポイント差のリードでこのシリーズ最終戦を迎えた。予選はH−H・フレンツェン(ウィリアムズ)を含め3人が1分21秒072の同タイム。先に出した順にビルヌーブがポールポジション(PP)、シュー2番手、フレンツェン3番手となった。決勝ではシューが先手を取ってリードしたが、48周目、追い上げたビルヌーブがシューのインを突いた時に接触、シューはグラベルに飛び出してリタイア。ビルヌーブはダメージを追いながら3位でゴールして初のチャンピオンを獲得した。その後、シューの行為は故意と判断され、その年の全ポイント(78ポイント)がはく奪された。
アルベルト・アントニーニ(Alberto ANTONINI) 44歳。ボローニャ在住。レース専門誌「アウトスプリント」の記者として1994年からF1を取材。5カ国語に堪能で、東京中日スポーツ、ジオナーレ・ディ・シチリア紙にも寄稿している
アルベルト・アントニーニ(Alberto ANTONINI) 44歳。ボローニャ在住。レース専門誌「アウトスプリント」の記者として1994年からF1を取材。5カ国語に堪能で、東京中日スポーツ、ジオナーレ・ディ・シチリア紙にも寄稿している