90年Round 6 メキシコGP
(90年6月27日掲載)
笑顔でガッツポーズを決めるプロスト=(C)Chunichi
笑顔でガッツポーズを決めるプロスト=(C)Chunichi
◆ Round 6 メキシコGP
◆90年6月22〜24日 エルマノス・ロドリゲス・サーキット
 ▽PP G・ベルガー(マクラーレン・ホンダ)
 ▽優勝 A・プロスト(フェラーリ)
【プロストのメキシコGP】
 今季ワーストの13番グリッドからスタート。13周目には6位まで上昇。26周目にパトレーゼ、31周目にブーツェン、42周目にはピケを抜き3位浮上。セナをマンセル−プロストの形で猛追、55周目に僚友マンセルをパス。17秒あったセナとの差は、またたく間につまっていく。58周目に最速ラップ1分17秒958をマークするとその差は5・2秒に。60周目でテール・トゥ・ノーズに持ち込むや61周目にセナを一気にパス。近年では例を見ない13番手スタートからの優勝をきめた。これで自身がもつF1通算勝利記録をさらに更新、41勝とした。

「そしてセナは貯金を吐き出さねばならなかった」

 メキシコにはグランプリの予選が始まる3日前に到着した。このグランプリは特殊なグランプリだと言っていいだろう。何よりもまず、メキシコの首都をとりまく環境に、僕はいつも驚かされる。そしてサーキット。コースは極めてテクニカルでセッティングが難しく、変化に富んでいて息つくひまもない。

 有名なバンクのついた長い高速コーナーでは、ダウンフォースが絶対に必要だ。一方、最高速も犠牲にすることはできない。いいレースをするために最高速は必要だけれど、このサーキットには、コーナーの入り口で問題なく他車をラップできるポイントがいくつかあることを考えるとなおさらだ。したがって、ダウンフォースと最高速のうまい妥協点を見つけなければならない。

 コースの話を続けると、その最大の特徴はとてもバンピーで、気温、日光、雷雨、湿気、雨といった天候にとても左右されやすいこと。これにもなじまなければならない。金曜日の朝1番、僕はいきなりレース・セッティングに挑戦する決心をした。そしてフロント・サスペンションに変更を加えたシャーシでそれに挑んだ。が、結果は出なかった。今回のTカーの権利はマンセルにあったけれど、彼はカナダ仕様のままのそのTカーで僕よりいいタイムを出してしまったのだ。

 それに午後の予選で僕はスピンもしてしまった。マンセルが午前中の走行でレースカーのエンジンを壊してTカーに乗ってしまっている以上、ピットに戻っても乗る車はない。僕はそのまま残って、観察することに決めた。金曜日の僕の順位は10位に止まっていた。でも僕にはどうすることもできなかった。Tカーがなかったのだから……。

 土曜日の朝、僕は前日よりずっとダウンフォースを強くし、150リットルのガソリンを積んでコースに飛び出した。レースセッティングを入念に仕上げるためだ。車は変貌し、僕は午後の予選でスターティング・グリッドを前に進めることができると期待していた。

 でもご存じのとおり、僕にはそこまでこぎつけることができなかったばかりか、まったく逆の結果になってしまった。道を阻んだ原因はふたつあった。まず、あっという間に表面に気泡が発生してしまったタイヤ、それからエンジンだ。エンジンは1セット目のタイヤで走行中にその弱さの兆候を見せていたが、2セット目ではすっかりパワーダウン。僕は10位から13位のポジションまで転落していた。ひどいものだ。

 こんなふうに予選の結果が取るに足らないものだったおかげで、僕には少なくともインタビューに答える時間ができた。これは本当のことだけれど、現在スクーデリア・フェラーリの技術部門を動揺させている反乱について、何人にもインタビューされたのだ。エンリケ・スカラブローニ(訳者注=マラネロの研究室に常駐する開発担当エンジニア)が、巧みに僕たちのチームを離れる決意をしたのだ。これは、そんなに悪いことではない。というのは、これからはスティーブ・ニコルス(訳者注=実戦での開発担当エンジニア)がシャーシに関してすべての責任を持つからだ。しかし、残念なことにスカラブローニは自分が辞める前に、エアロダイナミクス担当のアンリ・デュランの離脱に協力していた。この損失は大きい。すぐにも補充を考えなければならない。

 日曜日の朝のフリー走行、空は雲で覆われていた。天気予報は70%の雨の確率を予想していた。でも僕はそんなに気にしていなかった。空気が汚染されているメキシコシティーで、まともな予想をすることはとても難しいのだ。

 僕はコースが変化しやすいことを心配してはいたけれど、柔らかいほうのレースタイヤ、Cタイヤを試してみることに決めた。そしてウイング角度を寝かせてダウンフォースを減らしたセッティングにしたのだ。スピンはしたものの、全車中トップの最高速304・2キロを記録した僕は、自分のフェラーリがみごとに戦闘的になっていることを確認した。

 僕のタイムは1分21秒。いちばん速いベルガーは1分19秒8。でも僕には自分がそれよりいいタイムが出せたことがわかっていた。僕はどんどんポジションを上げていくことができるぞ、と自信を持っていた……。レースは2時間後に迫っていた。

 しかし実際に僕が取ったのは、コンスタントに走って順位を上げていくという方法だった。特にタイヤには慎重になって、大事に走らなければならない。そうでないと悲劇的なことになるかもしれないことを、知っていたからだ。

 スタートは、13位のポジションのままだったことを除いてはうまくいった。しかしこの位置ではまわりにたくさん車がいてそれに注意しなければならない。僕は徹底的にアタックするという計画にもかかわらず、慎重であり続けようと一生懸命自制していた。

 12周目、僕は7番手につけていた。そして、そこからが正念場だった。前にセナ、ベルガー、ピケ、ブーツェン、パトレーゼ、そしてマンセルがいたからだ。ベルガーは前半を飛ばした代償としてタイヤ交換を強いられた。そして2台のウィリアムズ・ルノーとピケのベネトンを抜いた僕は42周目、マンセルの後ろ、3位のポジションにいた。僕は自分の力をコントロールするよう注意した。抜き方を選ばないようなやり方はしたくなかったからだ。

 そしてセナ。彼のペースはコンスタントなものだったが、僕のペースに対抗できるものではなかった。それが、僕のやる気に拍車をかけた。僕は続けざまにファステストラップをぬり替え、タイヤトラブルをかかえたセナは貯金を吐き出さなければならなかった。

 こうして、僕は41回目の勝利を得た。そしてセナがリタイアしたことによって、素晴らしい計算が成り立った。9ポイントを得て、モントリオールまでの遅れの一部を取り返すことができたのだ。これ以上のことは望みようもなかった。

 疲労感に襲われながらも、僕はとても幸せだった。(訳・今宮雅子)

(次回はフランスGP編を掲載します)