90年Round 7 フランスGP
(90年7月11日掲載)
厳しいレースを制したプロスト=(C)Chunichi
厳しいレースを制したプロスト=(C)Chunichi
◆ Round 7 フランスGP
◆90年6月22〜24日 ポールリカール・サーキット
 ▽PP N・マンセル(フェラーリ)
 ▽優勝 A・プロスト(フェラーリ)
 【プロストのフランスGP】
 ▽予選1日目 マンセル、セナに次いで3位▽予選2日目 前回のタイムをさらに縮めるが、ひとつ順位を下げて、4番手グリッド▽決勝 序盤、6番手をキープ。27周を終え、上位陣では真っ先にピットインし、タイヤ交換。ピット作業は素早く、7秒64(セナ16秒62、ベルガー12秒73、マンセル9秒57)。カペリ、グージェルミンのレイトンハウス2台に続き3位に浮上、53周目でグージェルミンをかわし2位へ。カペリをなかなかとらえ切れなかったが、78周目でついにカペリを抜いて首位に立ち、ゴール。

「2位でもいいか…でもここはオレの国だ」

 F1ゴルフ大会のあと、ぼくはビアリッツとサントロペでつかの間のバカンスを楽しんだ。何度も説明してきたように、メキシコGPは特に、メキシコシティーの汚染された空気のせいで耐え難いレースだった。ぼくには少しでも休息が必要だったのだ。

 そしてポールリカール・サーキットにやってきたのは木曜日の午後。金曜日の早朝、フリー走行が始まるまでに現場で仕事に取りかかるためだ。ぼくにはやらなければならないこと、確認すべきことがたくさんあった。特に、ナイジェル・マンセルと話さなければならない。彼がシルバーストーンでフェラーリのニューエンジンをテストしてきたからだ。

 それが素晴らしいものであったからこそ、チェザーレ・フィオリオはポールリカールに4台の車を持ち込むという決心をしたのだ。つまり、レースカー2台にはメキシコと同じタイプのエンジンを搭載し、予選用の車2台にはポテンシャルは素晴らしいけれど、まだ信頼性が十分とはいえないニューエンジンを積むということなのだ。それでぼくとナイジェルは、問題なく予選とレースの状況にそれぞれ自分のセッティングができることになった。

 金曜日の午前中、ぼくはまず信頼性のあるエンジンでレース・セッティングを徹底的に試し、最後に2、3周だけ予選用の車で走って午後に備えた。その結果、ぼくは予選の最後にポールポジションのナイジェルから0・4秒の3位のタイムをマークした。タイムアタック・ラップに入ったところでまずアレックス・カフィにじゃまされ、計測ラインの手前では、ステファノ・モデナにひっかかっていたことを考えると、このタイムは満足のいくものだった。したがって、翌日の予選で最速のタイムを出すことに関しては、ぼくは何も心配していなかった。
 
 そんなわけで、ぼくは土曜日の朝のセッション中ほとんど、満タンのガソリンで走りとても満足のいくタイムを出すことができた。そして土曜日午後の予選中盤で、ぼくは予選用の車に乗り換えた。このセッションでは2番手のタイムを出すことができたが、ナイジェルのタイムに近づくには路面温度があまりにも上がり過ぎていた。タイムは前日よりよかったにもかかわらず、グリッドのポジションは4番目に下がっていた。でも、心配はしていなかった。メキシコではほとんど真ん中のグリッドからスタートしたのだから……。

 日曜日の朝のウオームアップには、4台の車すべてに従来型のエンジンが積まれていたが、ぼくはいつものレースカーを使うことにした。その車でぼくはマンセルより速い、最速のタイムを記録したのだ。フランスGPはとてもうまくいきそうだった。最高速は速く、満タン時の車の動きもよく、レース用のソフトタイヤのグリップもよかった。ぼくは簡単に前の車を抜いてトップを走り、楽勝できると考えていた。

 しかし、実際はそううまくはいかなかった。むしろその逆だったといっていいだろう。ぼくは早いタイミングでタイヤ交換をしなければならなかった。タイヤ交換自体は予想していたことだけど、交換したあとのタイヤが悪かった。左後輪のゴムが帯状にはがれてしまったのだ。そこからくるバイブレーションと、ボクの不安は想像にお任せしたい。それでもボクは前を行くイワン・カペリをとらえなければならない。ボクは周回ごとに彼に近づいていった。しかしそこでエンジンにトラブルが発生した。加速時とギアチェンジの時にエンジンが息をつき始めたのだ。

 レースは難しくなってきた。正直にいうと、ぼくはその時点で2位のポジションをキープしようと考えていた。カペリが優勝し、ぼくは2位の6ポイントを獲得する。セナはその時点ではまだ、5位のポジションから抜け出してはいなかったから……。

 でも、そんなぼくの考えを取り払ったのは、ぼくの体を流れるフランス人の血だ。ぼくたちはフランスに、ポールリカール・サーキットにいるのだ。ぼくはあまりリスクは冒さないまでも、イチかバチかの勝負に出ようと決心した。

 カペリはエンジンのトラブルを抱えていた。しかし、残念ながらぼくの方もそれは同じだ。ぼくはボーセの入り口で規則的にアウト側にラインをとっていたが、いま一度、カペリに同じ動きを見せた。そして、その数周後、ぼくはアウトからインにラインを変えてフェイントをかけた。それはほとんど完ぺきに行われたが、カペリを抜くことは不可能だった。

 そして、ぼくは自分のラインを変更することにした。シーニュ・コーナーを抜けると、カペリをアウト側にとどまらせるためにできるだけ早くインに飛び込んだのだ。この作戦は成功した。最後のチャンスだったのだ。160回のグランプリを闘ってきて42勝目を挙げるまでに、あと3周しか残っていなかったのだから……。(訳・今宮雅子)

(次回はイギリスGP編を掲載します)