90年Round 13 ポルトガルGP
(90年9月26日掲載)
アレジ(左)と談笑するプロスト=(C)Chunichi
アレジ(左)と談笑するプロスト=(C)Chunichi
◆ Round 13 ポルトガルGP
◆90年9月21〜23日 エストリル・サーキット
 ▽PP N・マンセル(フェラーリ)
 ▽優勝 N・マンセル
【プロストのポルトガルGP】
 予選2番手の好位置も、スタートでPPのマンセルに幅寄せされ、1コーナーで5位に落ちた。12周目にピケをパスして4位へ。26周目3位。28周のセナのタイヤ交換で2位に上がったが、30周目の自分のタイヤ交換に手間どり、また5位転落。しかし、32周目でナニーニを、58周目にベルガーをパスし3位へ。2位セナに1・38秒、首位マンセルに4・18秒まで迫り、得意のパターンに持ち込んだ。が、その3周後に赤旗でレースが打ち切られてしまった。

「スクーデリアにはいかなる戦術も方針もない」

 イタリアGPを終えて、細かい事柄の調整のために僕は一度フランスに戻り、翌週すぐ、テストのためフェラーリのプライベートコースであるフィオラノに向かった。テストの目的はおもにエンジンだ。これはスペインGPで使用する改良型の信頼性が確認されるまで続けられるという、かなり納得のいくものだった。実際に、僕たちのシャーシの質をもってしても、モンツァのようにエンジンの立ち上がりが弱いというのは考えられないことだった。

 エストリルではこれは実際には大きな問題ではなかった。エアロダイナミクス効果が優れていることや、シャーシのロードホールディングが、大きくものをいうコースだからだ。しかしヘレス(スペイン)では、僕たちのV12が力強さを取り戻すことが絶対条件。

 そしてフィオラノでは、ジャン・アレジとフェラーリの契約がついに実現した。この移籍について、夏の初めからのドラマの真相をここで明らかにすることが必要だと、僕には思われる。あまりにも多くのことが語られたり、書かれたりしたからだ。

 ジャンと僕とのあいだには、グランプリ・ドライバー同士の一般的な友人関係以外、ほかには何もなかった。モナコでは幾分、それがゆるんだのかもしれない。このグランプリで、彼は1周目には僕をアタックしないと断言していた。ところがスタート直後の興奮の中で、彼は自分の言葉を忘れてしまったのだ。

 今までのキャリアの中で、僕は数え切れないほどこの種の経験をしてきた。そして、時が流れるとともに、僕はこれを当たり前のことととらえ、慣れてしまうことができるようになっていた。あのモナコGPから多くの時間が流れ、いくつものグランプリが繰り広げられた。いちばん大切なのは、これからのことだ。

 エストリルでの僕たちの態度は、もちろん注目の的だった。カメラマンは、僕たちの握手している姿を撮影したいと要求し、僕はそれを断った。でもご心配なく。僕はジャンにはあらかじめ秘密を打ち明けてあった。これは冗談だったのだ。うわさが前よりもすごい勢いでパドックを駆け巡ったことは、読者のみなさんも簡単に想像していただけると思う……。実際には、僕はジャンに、まじめに話し合わなければならないことを告げ、予選2日目の夜に彼と話し合った。

 僕は彼の衝動的な性格を知っていたし、特に僕たちがふたりともフランス人であることから、メディアのプレッシャーが僕たちを敵対させようとすることは、僕にはよくわかっていた。それで僕は、フェラーリで安定した仕事の流れを築き上げてきたこと、それが本当に壊れやすいものであることをジャンに理解してもらいたかったのだ。僕は彼にスクーデリア(フェラーリの代名詞)を学ばなければならないことを告げ、それを彼に教えることを約束した。

 ポルトガルGPの第1日目は実のあるものだった。僕はレースセッティングを素早く決めることができた。しかし午後の予選ではわずかの差でポールポジションを逃してしまった。僕はセナでも破ることが難しいはずのタイムを記録していたのだ。しかし彼はあらゆる危険を冒してそれをやってのけた。

 土曜日の朝、僕はマシンのレースセッティングを仕上げた。調子は最高だ。そして再び予選に備えていた。午後の予選では、少しのあいだポールポジションを保持することができた。ところが奇妙なことに、僕の敵はマンセルだったのだ。最後の瞬間に僕を追い抜いたのは彼だった。

 でも、最終的にはこれは重大なことではない。641のシャーシ性能のおかげで、フェラーリは2台のマクラーレン・ホンダを抑え、スターティング・グリッドの一列目を独占することができたのだ。

 日曜日の朝のウオームアップで、僕はセッティングが素晴らしいことを確認できたが、トップタイムを出さなかったことには、皆が驚いていた。

 今までめったにやらなかったことだけれど、ガソリンを本当に満タンにして走り続けたのだ。マシンの動きをよく理解し、レースの作戦を組み立てるためだった。レースではタイヤが重要な役割を果たしてくるだろう。BタイヤかCタイヤ、つまりハードタイヤかソフトタイヤ、という選択に加えて、レース中盤のタイヤ交換も必至だった。

 でも、これまで考えてきたことはすべて、取るに足らないことになってしまった。スタートのグリーン・シグナルが点灯され、マンセルが彼のフェラーリのコントロールを“失った”瞬間に、レースは決まってしまったのだ。

 彼は、僕をピットウォールに押し寄せたばかりでなく、僕はタイヤをウォールに接触しそうになり、ブレーキングを余儀なくされ、そして2台のマクラーレン・ホンダには十分な道をあけてしまった。マンセルがわざと僕を妨害しようとして寄せてきたかどうかはわからいけど……。

 レースでは彼のライバルは僕ひとりだった。彼は僕を威嚇しようとして、結局自分のマシンをコントロールできなくなったのだと僕は思う。いずれにしろ、先週僕がフィオラノで行った、スタートの時のためのエンジンセッティングに関するテストは、一瞬のうちに破壊されてしまった。怒りの涙を流すだけの理由はあったのだ。

 そして、ここで、僕はレース後の言葉を繰り返すことしかできない。フェラーリはワールドチャンピオンに値しない。マクラーレンのように非常に密で、一本化した構造の整ったチームを前にして、スクーデリアにはいかなる戦術も、方針もないのだ。

 こんなことがあっては、僕は来年に関する自分の姿勢を考え直すかもしれない。場合によっては、チームを替わること、そして、もう何も理解できなくなってしまったF1から引退することも考えるかもしれない。(訳・今宮雅子)

(次回はスペインGP編を掲載します)