90年Round 12 イタリアGP
(90年9月12日掲載)
マシンに乗り込みレースに臨むプロスト=(C)Chunichi
マシンに乗り込みレースに臨むプロスト=(C)Chunichi
◆ Round 12 イタリアGP
◆90年9月7〜9日 アウトドローモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァ
 ▽PP A・セナ(マクラーレン・ホンダ)
 ▽優勝 A・セナ
【プロストのイタリアGP】
 ▽予選 1分22秒935 2番手
 ▽決勝 1時間18分03秒932 2位

「この瞬間にすべてが語られた」

 モンツァには、グランプリの始まる前日に着いた。前の週にここで行われたテスト中の事故のため、僕は首に軽い後遺症が残っていた。事故の状況は明らかなものだ。テストの時、僕はアクセルペダルの問題を抱えていた。アクセルを踏んでも、思うようにエンジンのパワーを引き出せないのだ。ペダルがうまく調整されていないのが原因だった。事故はアクセルの開きが遅いところを、メカニックたちが直した直後のことだった。ピットから飛び出した僕は2周目に入った瞬間、アクセルを全開した。その時、スロットルにトラブルが起きていたのだ。その状態でクルヴァ・グランデを抜け、その先のレズモに差しかかった。

 そして、アクセルペダルから足をあげたが(ペダルが)何の反応もなかった。本来なら、こういった場面に備えて用意されているキル・スイッチを切って電気系を止めてしまうべきところを、僕は初心者のようにブレーキを踏んでしまった。その結果、マシンは真っすぐガードレースに向かって進んで行った。

 グランプリのために再びモンツァを訪れた時には、僕の体はふだんとほとんど変わらないくらいの状態に戻っていた。それに、何より僕はすごく気力にあふれていた。ナイジェルと僕は2人ともそれぞれレースカーとTカーを用意されていた。理由はフェラーリのニューエンジン037の改良バージョンを予選で使用するためだ。

 もう一つ良いニュースは、ベルギーGPの時と違って、グッドイヤーの古いコンストラクションのレースタイヤを使用できることだ。僕はこのタイヤでイギリスGPを勝つことができたのだけど、ドイツGPからグッドイヤーの用意したタイヤの中から消えてしまっていた。マクラーレン、ウィリアムズ、フェラーリの間での“紳士協定”中に、チームはタイヤメーカーが用意したタイヤの中からチョイスしなければならないということが含まされいたが、イタリアGPでは、グッドイヤーが自らのトレーラーにこの旧構造のタイヤを積んできてこの問題を解決した。

 金曜日のフリー走行の出だしはうまくなかった。温められていると思ったタイヤが冷えたままだった。結果はシケインの手前で、2速にシフトダウンした時にすぐ表れた。タイヤロックに気がついた時には、僕はエスケープゾーンの砂の中にいた。そのあと、再スタートしたら、今度はエンジンが完全に壊れてしまった。少し説明するなら、あまり熱心に12V開発したがために、予選用エンジンに十分パーツが残っていなかったのだ。そんなわけで、僕はTカーで走ることになったけれど、レース用のセッティングと予選の準備をうまく決めることができた。

 僕はそれでもポールポジションを獲得しようと心に決めていた。僕たちのエンジンではそれが可能なはずだった。でも、あと一息が足りなかった。僕は15分くらいポールポジションの座にいたけれど予選の終わりのほんの少し前にセナが僕を負かしていた。予選用のタイヤを100%生かし切れなかったが、1列目に並べることを考えると、大きな問題ではなかった。レース用のタイヤをはけば僕はこのサーキットの特徴ともいえるレズモとパラボリカのコーナーで、マクラーレンより有利なことは分かっていた。しかし、ご存じの通り、これだけでは十分なアドバンテージとはいえなかった。

 日曜日の朝のウオームアップでベスト・タイムをたたき出し、僕はある選択を強いられていた。タイムがいちばん良かったとはいえ、2位のセナのタイムとはたった100分の4秒しか違わないのだ。レースでは旧構造のAタイヤ(ハードタイヤ)という選択が良いものではなかったことがはっきりした。2回目のスタートでは、僕は懸命にベルガーを迎え撃とうとしたけれど、不可能だった。僕たちのエンジンはホンダほどのトルクがないのだ。

 4周目には僕はセナとベルガーのうしろ、3位のポジションにいた。そこからベルガーにアタックし、彼を抜くまでに16周もかかってしまった。ほとんど遅すぎたと言ってもいいだろう。車はレースの序盤では完ぺきだったけれど、15周ぐらいでタイヤが減り始めてしまったのだ。バイブレーションはだんだんとはっきりし、そしてその後、激しくなってきた。僕はあえて言うなら、急ぐ心を抑えながら、ぐずぐずとあきらめるしかなかった。タイヤ交換というリスクを冒してまで、これ以上アタックしたくはなかったのだ。それでもできる限りセナを追い回して、ベルガーからは遠ざかりたいと望んでいた。

 ゴールした少しあとで、ジャーナリストの質問を聞いていて、チャンピオンがかなり危ういということがわかった。僕はまだそうは考えていないけれど、残る4つのグランプリでの、僕の使命は難しいものになるだろう。4つの優勝さえ必要になってくるかもしれない−−。しかしながら、サーキットを出るときに僕の頭の中にあったのは、この難しい計算ではなかった。イタリアではこれよりずっと大切なことがあったのだ。

 それはレース後の記者会見のときのことだった。質問が出尽くしたところで、1人のジャーナリストが僕たち−アイルトンと僕−にこういう質問をしてきた。「なぜ、あなたたちはお互いに握手を交わさないのですか?」

 僕はフェニックス(アメリカGP)でそういう態度を示したけれど、アイルトンがそれを受け入れなかったのだと答えた。そしてアイルトンは彼の立場からこう説明した。「僕たちは同じ仕事をしているし、同じ情熱を持っている。それだけが僕たちに共通することだ。本当に望むのならば、手を差し出すことはできるだろう。だけどそれはプライベートに行うべきではない。みんなの前でそうすれば、違った意味があるはずだ」。僕は答えた。「去年のことはもう忘れよう。もし僕がアイルトンと一列目に並んでも何の心配もないことは僕にはわかっているよ」と。僕は立ち上がって、彼に手を差しのべた。彼はそれを受け止め握手を交わし、僕たちは肩を抱き合い、そしてこの瞬間にすべてが語られた。こんな感動した瞬間を僕は簡単には忘れることはできないだろう。(訳・今宮雅子)
(次回はポルトガルGP編を掲載します)