93年Round 4 サンマリノGP編
(93年4月28日掲載)
雪辱のシーズン2勝目をマーク、表彰台で照れ笑いを浮かべるプロスト(C)Chunichi
雪辱のシーズン2勝目をマーク、表彰台で照れ笑いを浮かべるプロスト(C)Chunichi
◆ Round 4 サンマリノGP
◆93年4月23〜25日 イモラ
 ▽PP A・プロスト(ウィリアムズ・ルノー)
 ▽優勝 A・プロスト
【プロストのサンマリノGP】
 ▽予選 1分22秒070
 ▽決勝 1時間33分20秒413

「2つの敵と戦った意味ある勝利だ」

 僕にとって苦しい2週間は、ドニントンから帰ってすぐに始まった。毎日、僕は新聞や雑誌を読み、日を追うごとに自分がひどくこき下ろされていくのを見ていた。ラジオは毎日のように、ウィリアムズ、ルノー、それに僕の3者の協調はもう終わったとはっきり述べていた。批判のあまりのひどさに、ヨーロッパGPの2日後には、TF1の夜8時からの番組に出演し、自分の立場を説明しなければならなかったくらいだ。

 また、グランプリに来ているほとんどのジャーナリストに対して、もう技術的な話はしないと決心したのもこの時だった。そんなことをしたって、何の役に立つだろう? ドニントンで、僕はタイヤ(温まっていなかったセットや空気圧の低かったセット)の問題、ギアのセレクションの問題などを説明した。ところが僕がいつものように真実を説明したのに対して、ジャーナリストはそれを不公平と受け取ったのだ。もう、僕は批判に身をさらすつもりはない。マシン? 最高。エンジン? 素晴らしい。それ以上は何も言えない。「技術的な説明については、チームに聞いてほしい」イモラのレース後、僕はこう宣言していた。これからは、少なくともF1のマシンがどうやって動いているのか知っている者にだけ説明することに僕は決めたのだ。

 サンマリノGPの話に入ろう。滑り出しは最悪だった金曜日の朝のフリー走行で、ジャン・アレジがミスをして僕のマシンにぶつかってきたのだ。その夜、ジャンと一緒に食事をした僕は、彼をからかい続け、ジャンの方はしょんぼりしてしまった。でも彼のいちばん素晴らしいところは、正直なことだ。だから、彼がイモラのレース委員に自分の100%の責任があると告げ、レース委員が彼を非難した時には、僕の方が激怒したくらいだ。ふたりの友人の間に抗議も、涙も、侮蔑(べつ)も傷もなく、接触の話が終わっているのに、非難などしたところで何の意味があるのか?

 それでも、フリー走行の1セッションを失ったことに変わりはなかった。その後、週末の間ずっと、僕はその影響を感じることになったのだ。実際、走行不足のせいで僕はウィリアムズのセッティングを仕上げるのに苦労していた。こんな状況の中で、デーモン・ヒルが僕の前に立っても、それは当たり前のことだった。彼は彼自身の仕事をすべきだし、イモラが彼のよく知っているサーキットであるだけにそれはなおさらだ。

 僕はそれでも彼がポールポジションを獲得する機会を与えなかった。僕からポールポジションを奪い返そうと、デーモンが2セット目のタイヤでアタックしている時、僕は新しいセットをはいてコース上にいた。彼が僕を上回るタイムを出した場合に備えていたのだ。でも、その必要はなかった。ポールポジションは獲得したものの、僕のセッティングはまだ完ぺきだとはいえなかった。だからレースの前に雨が降り始めた時は、みんながおそらく想像したのと逆に、僕は天候に不満を感じてはいなかった。レギュレーションによって与えられた15分のレインタイヤでの短いテスト走行は、僕にとって願ってもないチャンスだったのだ。

 まず、ダウンフォースに関して2、3の細かい点を調整し、それから特に、最高のトラクションを得るため、僕はエンジンやトランスミッションの調整に重点を置いた。コース・コンディションがどのように変化しても、イモラのコースでは大きなトラクションが必要とされる。たとえ路面が乾いてもだ。そこで僕はトラクション・コントロールを最高にセットした。それからトランスミッションに関しては、ディファレンシャルのスリップ率を限界まで小さくした。雨が降ればその方がいいし、晴れればドライビングは厳しくなるけど、大きな問題ではない。

 最後に、僕はガーニーフラップを加える決心をした。朝のウオームアップでは、ガーニーフラップをつけた状態で燃費が大丈夫だとわかっていたし、しかも、それはドライ状態で測ったものだったから。レース自体は、外から見るとおそらく単調なものに見えただろう。でも実際は、ものすごく難しいレースだったということができる。僕のキャリアにおいても、もっとも意味のある勝利のひとつだったといっていいくらいだ。

 まずリスクの大きなレースであったこと。僕はヒルとセナについていくため、それから12周目に彼らを同時に抜くためにも、リスクをおかした。トサ・コーナーにさしかかったところで、スリックタイヤをはいた僕はイン側ラインを守っていた。通常、常にアウトから追い越しをかけるところでだ。何台かの周回遅れを交えたグループの中で、僕はインからふたりを奇襲し、その狙いは当たった。次に、技術的な面とレースのコントロールについて。タイヤ交換のタイミングは良かった。けれど最後の2周には再び本気で雨が降り始め、ものすごく慎重に走らなければならなかった。コースは本当に汚れていたし、僕のタイヤもすごく減っていたからだ。

 そして最後に信頼性の問題。読者のみなさんには、僕がふたつの大きなトラブルと戦っていたことを打ち明けることができる。ひとつはアクセレレーターの問題。51周目には4回にわたってケーブルが完全に開いた状態でロックしてしまったのだ。そのため52周目はほとんどスロー・ダウンして走らなければならなかった。それから、ドニントンと同様、レース中はほとんどギアボックスが気まぐれを起こしていたこと。幸い今回は、僕のギアボックスの問題を証言してくれる人間がいた。一緒に走っていた時に、セナが僕の問題に気づいたのだ。彼がレースの後それを証言してくれたことに僕は感謝したい。

 表彰台の上で、僕が心から満足していたのはみなさんも気づかれたとおりだ。この、絶対に落とせないサンマリノGPを制した喜びが、僕の中でどんどん膨らんでいた。(訳・今宮雅子)

(次回はスペインGP編を掲載します)