デンソープラグの支援を受けて新たなスタートを切った今季の宇井陽一
デンソープラグの支援を受けて新たなスタートを切った今季の宇井陽一
 かつてロードレース世界選手権(WGP)でチャンピオン争いを繰り広げた宇井陽一(47)。昨年はチームトラックが盗難に遭って絶望の淵に立たされたが、さすがレジェンド、クラウドファンディングでレース資金をたちまち調達し、今季は全日本ロードレース選手権のJGP3クラスに出場中。ライダーとしての速さに加え、エンジニアとしても一流であることが宇井の強み。英語でバイクの挙動を的確に説明できる数少ない人材でもある。コロナ禍で活動は制限されているが、デンソープラグの支援を受け、宇井の進撃はとどまることを知らない。
“WGPの父”ハラルド・バートルさん(左)とともに
“WGPの父”ハラルド・バートルさん(左)とともに

 全日本が一段落した12年、アジアロードレース選手権(ARRC)に参戦するヤマハマレーシアからインストラクターとして招かれ、セッティングの相談に乗るようになった。そして、宇井が関わったアジアのライダーたちのスキルが明らかに向上する。12年途中から伊藤勇樹を走らせ、タイトル争いを繰り広げるまで押し上げた。伊藤は16年にヤマハのセミワークスライダーとなった。

 16年からはヤマハタイランドからも望まれ、エンジニアとしてサポートを開始すると、ライダーたちは速さを増してトップ争いに絡むようになった。18年にはラタポン・ウィライロー、19年にはピラポン・ブーンラートをSS600クラスのチャンピオンに導いた“宇井マジック”は、ARRCでは有名だ。しかし本人は「ライダーの資質があり、それを磨く手伝いをしているだけ。才能あるライダーはアジアにも日本にもたくさんいる」と謙虚に語る。

 15年にはオーナー兼監督を務める「Team One For All」を立ち上げた。当初はAP250クラスに参戦していたが、17年からアンダーボーン150を中心に参戦。メカニック、ライダーの育成に努め、ARRCでも一目置かれるチームとなった。ここで学んだメカニックは全日本にも武者修行に訪れている。言語は英語にして、海外参戦にも通用する人材を育てている。

 チーム名の由来は「一人はみんなのために」。これは宇井がレースに向き合う時に、一番大切にしていることで「ライダー、エンジニア、メカニック、ヘルパー、レースに関わる全員がお互いを思い、力を合わせてチームがひとつになる」ことを目指している。

 世界的なパンデミック(大流行)を引き起こした新型コロナウイルスの影響で、今季のARRCは、開幕戦を行ったのみでシリーズ中止が発表されている。だが、いつ再開されてもいいように、宇井はアジアのスタッフ、ライダーとの絆を保ち続けている。

 宇井は1994年、全日本ロードに昇格してGP125に参戦。95年にはGP125チャンピオンとなり、96年からWGP参戦を開始する。ここで宇井が「WGPの父」と呼ぶエンジニアのハラルド・バートルさんに出会った。

 WGP最高峰の500ccクラス王者のケニー・ロバーツ、ウェイン・レイニーらのエンジニアとしてのキャリアを持つバートルさんは、宇井の開発ライダーとしての才能を早くから見抜いた。マシンの細かい挙動、エンジンの特性、サスペンションの動き、タイヤの接地感などを敏感に感じ、的確な言葉で伝える。宇井にはライダーだけにとどまらない魅力があった。

 バートルさんは、99年スペインのバイクメーカー、デルビから開発責任者として移籍を持ちかけられると、宇井をエースにすることを条件に2人で移籍した。この年からフレーム、エンジンの開発を進め、翌年の2000年から宇井は125ccクラスのトップ争いに加わり、日本GPでWGP初優勝を飾り、タイトル争いを繰り広げた。00、01年はランキング2位となり、チャンピオン獲得まであと一歩に迫った。

 「エンジンが壊れたり、トラブルがあったりと、頂点に立つことはなかったが、ハラルドとの出会いは、レース人生における大きな出来事だった。開発のノウハウをたたき込まれた」と宇井は語る。

 また、英語も習得した。WGP参戦当初は「何を話しているのか分からず、オレの悪口を言っているとしか思えなかった」と苦笑する。「デルビでは8カ国もの人間が仕事をしていた。同じ国のスタッフがいても、母国語で話すのはプライベートのみで、仕事中は英語と決められていた。中学校の教科書を引っ張り出して猛勉強。英語が話せないとクビと言われ、スタッフも『陽一と仕事がしたいから』と英語を必死に勉強してくれた。いろいろな意味でWGPでは鍛えられました」

 その後も複数の海外メーカーに誘われてWGPで戦い、04年にはモトGPにもまたがった。日本メーカーの後押しでWGPに挑戦する日本人ライダーは多いが、宇井はその能力で海外メーカーを渡り歩き、ライダーとしてブラッシュアップし続けた。

 135戦出場して11勝、ポールポジション17回、22回も表彰台に上った。「この数字は僕の誇り」と胸を張る。そして、10年間のWGP生活を終えて05年に帰国、戦いの場を全日本に移した。
監督としてARRCに参戦。グリッド上で全員で気合を入れる
監督としてARRCに参戦。グリッド上で全員で気合を入れる
 05年には全日本ST600クラスに参戦。06年にはGP250でランキング3位となると07、09年にはチャンピオンを獲得。世界で磨いた走りを披露した。

 好結果を残せたのは、ダンロップタイヤとの出会いがあった。宇井がプロになる前の1992年、レース前に「廃棄タイヤをいただけないでしょうか?」と訪ね、快く程度の良い中古タイヤを提供してもらい、それで優勝したことがきっかけになった。それから資金的に苦しかった時の恩を忘れず、他メーカーからのオファーも断りダンロップ一筋。その関係は来年で30年を迎える。

 2000年からは開発ライダーになったが、「実戦経験があった方が開発が進む」と全日本の参戦を続けている。今年はダンロップタイヤ技術本部の松浦幸大氏と協力して「例年にないスピードで開発が進んでいる」という。

 昨年3月、レース機材が入ったトラックが盗まれ、参戦が危ぶまれたが、ファンからの勧めでクラウドファンディングを行い、レース参戦に必要な1000万円を超える資金を集めた。「500人以上がメッセージをくれ、『やめるな』と励ましてくれた。みんなにもらった力でレース継続を決め、それを実行することができた」。ピットには協力者の名前を入れたボードを置き、みんなの思いを乗せてレースに復帰した。

 新型コロナウイルスの脅威が去り、再び人と触れ合うことができるようになったら、07年から月1、2回のペースで開催していた「ウィズ ラン ライディングスクール」を再開したいと言う。

 「クラウドファンディングに協力してくれた人を招待して、バイクの楽しさを伝えたい。もちろん、それ以外の人も参加してほしい」

 宇井の下には、セッティングの相談にやってくる人が多い。日本だけにとどまらず、WGPからも声が掛かって海外に行くこともあった。全日本でも複数のチームやライダーの相談に乗っている。

 「関わったチームやライダーが結果を残してくれた時がうれしい。大きな達成感を感じることのできるレースの仕事は、何にも代えがたい魅力がある。これからも、自分を必要としてくれるところがあれば出掛けて行きたい」

 全日本ロードJGP3クラスは残り2戦、10月18日決勝のもてぎ戦、11月1日決勝の鈴鹿最終戦。これまで2戦して11位(SUGO)、14位(オートポリス)と本来の速さはまだ見せていないが、宇井は泰然自若。「開発がメイン。自分が走ることを望んでくれている人がいるんだと思わせてくれたトラック盗難事故、応援してくれる人への恩返しでもあるので、精いっぱい上位を目指す」と最後まで全力を尽くす覚悟だ。

 マシンへの深い洞察力を持つ宇井が選んだのはデンソープラグ。

 「デンソーさんとは04年、アプリリアに乗っているときに、相談をいただいた時からの付き合い。開発に関わらせてもらい、WGPから帰国してからもずっと続いている長い付き合い。その理由は性能が信頼できるから。これからも長い付き合いになると信じている」

 戦う47歳。その闘志はいまだスパークし続ける。